再生稲、美しい風景、野中兼山〔5278〕2017/09/27
2017年9月27日(水)晴れ
雲は多めですが、晴れてます。昨夜、少し降ったようで、濡れた大地が朝日に照らされて美しい。秋は僕を詩人にしてくれる。なんちゃって。
それはともかく野市。ここは会社近くの野市、上岡。この田んぼ、稲が色づいてきて稲刈りも近いのかな、とか思いますよね。実はこの田んぼ、この8月8日にご紹介してます。稲刈りが済んだ、田んぼの風景を。
ここでは、毎年、二毛作が行われてました。春に麦、そして夏から秋にかけて稲、というの。それがですね、今年は春に田植えが行われ、稲作になっていたのであります。そこで、稲刈りが済んだ8月8日時点での考察では、それからまた田植えをして二期作になるんだろう、と予想したんですね。
ところが。
田植えは行われず、そのまま置かれました。それが今、この風景。再生稲。稲の蘖(ひこばえ)。いや、稲の場合は穭と書いて、ひつじとか、ひつちとか読むらしい。
整理すると、樹木とかを伐採した後に出てくる若芽みたいなのが蘖(ヒコバエ)で、稲の蘖は穭。なので、蘖は春の季語だけども、稲の穭は秋の季語、という訳だ。そんな訳で秋の再生稲の風景。結局再び田植えをしなかった田んぼだけども、結構立派に稲が育ってきてます。これはこれで、そのまんま稲と稲穂ごとロール状に刈り取り、ラップに巻いて発酵させたらWCSだ。ホールクロップサイレージ。牛の飼料に最適。昔々は、再生稲を収穫して人間も食べてたんでしょうね。
高知で二期作が発祥したのは江戸時代のことですが、そもそものきっかっけは再生稲ということ。再生稲を食べたりしているうちに、これは田植えをやり直した方が収量も上がるし儲けにもなるぞ、と考えたかどうか知らんけど、それに近い経緯があったのは想像できますよね。ありがちありがち。
そんなこんなで、高知では、お米の二期作が始まった。
お米の減反政策で、二期作にメリットがなくなってどんどんと減っていきましたが、近年、また利用方法や販売方法に様々なバリエーションができたので、二期作とか再生稲の飼料利用とかが行われるようになった。そんなストーリーですかね。違うちょったらごめんなさい。
それにしても美しい風景。
今朝の高知新聞に、物部川流域と野中兼山の事績について、古地図をもとに紹介する、という特集が載ってました。読みました?
山田も野市も、洪積台地。更新世段丘。今から10万年前~100万年前、四国山地から運ばれてきた土砂が浅海底で堆積してできた地盤。それを古物部川などの河川が開削し、開削された部分が戦場地になり、残った部分が台地になる。
その台地は、地盤は固いが透水性が高い。つまり、水を使う農業には適していない。山田も野市も、不毛の荒野であった。それが、野中兼山の大土木事業によって豊かな農地となり、市がたち、街が発展したという歴史。
今から400年も前に、そのような大規模農地開発の発想があったこともすごいが、それを実現した土木技術もたいしたもの。
この美しい風景も、その発想と技術と努力によって実現したものである、という事実を、僕らは忘れたらいかんのでしょうね。
400年前、ここは不毛の荒野であった。