牛乳の記念碑〔5251〕2017/08/31
2017年8月31日(木)晴れ!
そんな訳で、今朝は大分。昨夜は大分の駅前に泊まっちょりました。
今朝。5時過ぎから久々に走ってみた、大分市内中央部。大分の街は、府内城を中心にした城下町。良い街です。
豊後と言えば、大友宗麟。戦国大名の中でも、キリシタン大名として異彩を放ち、存在感抜群の大友宗麟は、豊後府内の名族大友家の21代当主だ。
で、現在の府内城址は、以前にも書いたけど、大友宗麟とは関係ない。戦国末期に築城され、藩政期前期にかけて、その持ち主が次々に変わった府内城。大友宗麟の居館は、府内城ではなくてもっとずっと南にありました。
なのに、府内城の天守台の真下に、大友宗麟公の胸像があるのは不自然だ、などと以前のにっこりにも書いたこと、あります。前回に大分を訪れた、2014年12月のこと。
で。
今朝、府内城界隈をたつくってみたところ、その胸像が、ない。あった場所に、ない。いや、見間違いかも知れんけど、僕の記憶の場所にはなかった、大友宗麟公胸像。府内城と関係ないやないか!という声を受けてどこかに移されたのか。その辺は、謎。でも、なんか、スッキリした大分の朝。
府内城は、香川県高松の玉藻城と同じ匂いがする。別府湾に流れ込む大分川の河口につくられた、海の城だ。船から直接場内へ荷揚げできたといいますので、玉藻城と同じ。
天守台のつくりも、そう言えば似てます。
その府内城から南へ伸びる道。遊歩公園というのかな。真ん中に植え込みがあって、色んなオブジェが設置されている道。
府内城に一番近い場所にあるのは、伊藤ドン・マンショ像。そう。天正遣欧少年使節の、あの伊東マンショだ。こないだ読んだ大著「クアトロラガッツィ」の主人公の一人。
大友宗麟によって選ばれた伊東マンショは、クアトロラガッツィ、つまり四人の少年の首席正使として、あの時代に渡欧、ローマでの歓迎は、歴史的なものであったと言います。
8年後に帰国した時、大友宗麟は既に亡くなり、秀吉によるキリスト教禁教令が厳しさを増していた。それでもこっそり布教しながら1612年まで生きた、伊東マンショ。
その遊歩公園の南端近くに鎮座するのが、この写真のオブジェ。
育児院と牛乳の記念碑。
これも大友宗麟が関係してます。宗麟の時代に府内にザビエルがやってくる。ザビエルが居なくなって3年後にやってきたのが、ポルトガルの青年医師アルメイダ。彼は、府内に、日本で最初の洋式病院をつくり、外科手術などを行ったとされます。そして、戦国で荒れた日本で、貧困の為に嬰児を殺す風習があったのを嘆き、自費で育児院を建てたのも、アルメイダ。そこでで牝牛を飼育し、その牛乳で子供達を育てたという。だから、牛乳の記念碑。
子供に牛乳を飲ませ、育てる。今から400年以上も前の日本で、そんなことが行われていました。
そんなこんなのたくさんのオブジェを、この遊歩公園に設置したのは大分の水族館マリーンパレスの社長さん。このオブジェは創業9周年に寄贈したものだが、創業5周年とか8周年とか、毎年のように寄贈している。
創業10年にも満たない企業が、すごい。そんなこと、有り得るのか?
調べてみると、その社長の上田さんは、高崎山自然動物園を手がけた元大分市長なんだそう。なるほど。納得だ。
牛乳の記念碑をつくってくれているのも、なんだか嬉しいですよね。
ともあれ、大分の街には、大友宗麟の匂いが濃密に残っています。