天神橋と、志〔5241〕2017/08/21
2017年8月21日(月)晴れのち薄曇り
暑い。
昨夜から今朝にかけては、時折吹き抜ける風は心地よかったものの、湿度は結構高かった。なんとなく湿度が高い日が続く高知。
写真は今朝、4時頃の天神大橋。赤い欄干が闇夜に浮かび上がる。この、昭和61年に架けられた天神大橋も、こころなしかアーチ橋。たぶん、水害予防のために橋脚の数を減らす必要があって、大きなアーチ橋にしたんだと思う。こないだの潮江雪太郎さん(仮名)情報に鑑みれば、そうだ。
で、雪太郎さん(仮名)と天神橋。
思い出した。以前にも書きましたが、とても関係が深いのであります。雪太郎さん(仮名)と天神橋。
この場所に初めて立派な橋が架けられたのは、1622年のこと。二代藩主忠義公の時代。まだ、長宗我の残党が生き残っていた時代ですが、徐々に世相も落ち着き始めていた、そんな時代。山内の殿様が、菩提寺である真如寺へお参りするために架けられたのが始まり。真如寺橋。
そして20年に一度架け替えられる、というきまりができたんですな。アレだ。工場の機械でも、定期的に部品を交換するルールをつくるのと一緒だね。事故がおきない為の、メンテナンスのルール。
そして藩政期が終わり、明治に。20年ルールが厳密に守られ、続けられてきたのか、僕は知らない。知らないけど、几帳面な日本人だから、守られてきた可能性はある。守られてきたと仮定すると、1862年が、藩政期最後の架橋の年。文久2年だ。龍馬が脱藩する、そんな時代やね。
その次は1882年で明治15年。20年ルールは守られていたのか。
少なくとも、その20年後の明治35年までは、固定のちゃんとした橋が架かっていたのは間違いありません。ルールだと、その年に架けかえられるはずでした。
しかし。ここに新しい橋が架けられることはなかった。
明治36年、少し下流、現在の潮江橋の場所に立派な橋が架けられたのである。何故か。
それは、高知港が築港され、桟橋ができて、高知駅、はりまや橋、高知桟橋をつなぐまっすぐな道が作られたから。潮江の、田んぼしかないような平野を突っ切ってまっすぐな道。そしてそこに電車も走らせる。潮江橋には電車の橋も作られたのである。
時代は急速に近代化を迎えていた。
この天神橋よりも、潮江橋の方が、時代の要求に応える橋であった訳だ。時代の流れ。
そして20年ルールに基づいたのかどうか知らんけど、明治36年、この場所の天神橋は撤去。
でも、不便だったでしょうね。今まであった橋がなくなるんだもん。時代の流れとは言え。
そこで、潮江の有力者、馬太郎さんと金太郎さんが共同で簡易な私橋を架け、賃取り橋として運営した、と記録にあります。その賃取り橋は、ここに新しい天神橋が架橋される昭和2年まで続いたという。撤去されてから、24年も経過している。20年ルールをも超える期間、ここには簡易な賃取り橋しかなかった訳だ。
24年間営業する、ということは、事業としても人々の生活にとっても、完全に定着していたでありましょう。しかし、それも突然最後の日を迎えたのでありました。
と、ここまで書いてきて、この写真。欄干と、梅の花の紋。
紋の下に刻まれている文章を転載しよう。
橋のしるべ
歴史伝承のよすがとして 大正十四年(1925年)架橋時の親柱と 橋畔にありし紋(復元)を 記念として後世に伝う
天神大橋落成実行委員会 昭和61年6月吉日
あれ。昭和2年(1927年)ではなくて大正14年(1925年)か。工事期間と、賃取り橋終了までのタイムラグがあったのかも知れません。
ともあれ、その時に架けられた橋は、戦争を生き残り、昭和33年に新しい橋ができるまで30年ちょっと続く。昭和33年架橋の橋は、僕らが子供の頃に渡った橋で、昭和61年までの28年間、活躍する。
今のこの橋は、昭和61年から今までで31年。今までで最長を更新しようとしているが、まだまだ立派なもので、しばらくは架け替えの必要も見受けられません。耐震工事も終わったし。
たぶん、天神橋史上最長の期間、頑丈な橋として、まだまだ利用される天神大橋。その袂に、やはり30年以上利用された天神橋の親柱が立っていることは、あまり知られてません。
この親柱を中心に架橋されたとき、役割を終えたのが簡易賃取り橋。地域住民の利便の為に、私財をもってそれをつくった馬太郎さんの子孫が、潮江雪太郎さん(仮名)。雪太郎さん(仮名)も、今、高知の伝統野菜を後世に伝える、という非常に大切な、人々の為になる役割を果たしておられる。
「志」の伝統は、遺伝子に乗って引き継がれてゆく。