領石は交通の要衝〔5236〕2017/08/16
2017年8月16日(水)晴れ!
昨日、鏡川大橋があんな巨大なアーチ橋になり、それがニールセン形式の橋である、てなことを書きました。あんな、橋桁の無い大きな橋にする意味があったのか、という話。すると、潮江に古くからお住まいで、このにっこりに幾度か登場賜っている潮江雪太郎さん(仮名)からご指摘を頂戴しました。
鏡川は、昭和50年、51年の水害以降、橋脚のある橋を極力作らんようにしたそうです。なるほど。あの大雨の後、沈下橋や南国橋が撤去されました。上流から流れてきた流木などが引っ掛かり、それが鏡川の堤防越波を引き起こして水害をもたらした、とかいう理由であったことを、今、思い出しました。そうか。それで、あんなアーチの橋になったのか。
ものごとには、やはり、理由がある。
雪太郎さん(仮名)によると、あの鏡川大橋を架ける際、150mのボーリングが行われ、そのお陰で雪太郎さんち近辺では井戸水が全部塩水になってしまった、とのこと。さもあらんさもあらん。
大きなアーチ橋を架けるその土台部分を、更新世の強固な地盤の上に構築しょうとしたんでしょうね。高知の城下から潮江は、更新世の地盤は数十メートル下に沈んでますもの。
足摺が室戸が隆起し、高知平野界隈が沈降している、という例のプレート運動の結果ですな。
ものごとには、やはり、理由がある。
と、まあ、地学の話は置いておいて、今日は領石。
南国市領石にある、大きな食品問屋さんの本社に行ってました。お盆ですが、仕事です。領石。りょうせき。もともと、龍石寺というお寺さんがあったので龍石。それがいつしか領石になりました。
高知の城下から本山を抜け、立川番所、馬立番所を通って川之江へ抜ける街道の、要衝。領石から、街道は四国山地の山へと入っていきます。
写真は、領石の天満宮参道前。
国道32号線の旧道から10mほど北へ入った場所。この道が、かつての土佐北街道。お殿様はこの道を参勤交代してました。その向こうには領石送り番所の建物があったと言う。かつて、かなりの往来があったと思われるこの道も、今は静かな山の小径だ。
左手の灯篭に、幕末土佐だけに存在したという幻の私年号「天晴」が刻まれているという話は、今年5月5日のにっこりでやりましたっけ。
この、かつての交通の要衝で、四国山地と、その向こうの広い世界への入り口であった領石。ここに高知自動車道の南国インターができ、四国山地の向こうの広い世界の入り口となった。その交通の要衝に、大きな食品問屋さんの巨大な流通センターが。
これは、かつての歴史の文脈が、今もここに騰々と流れていることを実感させてくれます。
文明、産業、流通。歴史の中で、それは、一つの文脈となって流れてゆく。
香長平野南部の、水が豊かで農耕に適した土地に、昭和の初期、酪農業が盛んになってゆく。そこに、今、弊社の工場がある、とい事実も、その地の歴史の文脈の中で考えると、スッキリと理解できる。できますよね?
ものごとには、やはり、理由がある。