台風と浦戸湾〔5227〕2017/08/07
2017年8月7日(月)台風通過中
台風5号通過中。
進路がだいぶ東寄りになり、土佐湾を東進するコースになった台風5号。朝7時現在、土佐湾を室戸岬に向かっている、という情報ですね。夜の間に吹いたり降ったりした高知県地方。このまま、あまり被害もなく行き抜けて行って欲しいところ。
写真は、今朝、4時過ぎの浦戸湾。
タナスカの、土佐海援丸が停泊する桟橋から弘化台方面を撮影してみました。この写真ではわかりにくいですが、時折、強い雨がたたきつけ、強風が吹きすさぶ浦戸湾。湾内ですが、強風で沸き立つ海面。
あの弘化台が埋め立てられ、高知中央卸売市場ができたのは昭和42年。1967年。
浦戸湾の南半分、孕半島から南の、東西の両岸を広く埋め立て、工業地帯を造成しようという計画が為されたのが1960年頃のことと言います。
地理院地図の航空写真を見てみよう。
この写真が1962年5月6日撮影のもの。同じ日に、浦戸湾のたくさんの箇所で航空写真が撮影されている。想像するに、埋め立て計画を推進していく準備としての撮影だったのではないか。その後、埋め立てられることになる海岸線を丹念に撮影している。
そして2年後、1964年5月15日の航空写真には、浦戸湾東岸が広く広く埋め立てられている風景が映ってます。あの弘化台も、埋め立てが進んでいる様子だ。
その後すぐに西岸も広く埋め立てられる計画になっていた。1967年までに完成する計画だった。しかし、浦戸湾を守る会の皆さんや地域住民の働きかけで取り敢えず工事は縮小されることになる。そして、1970年の台風10号。
丁度大潮の満潮と重なったこともあって、浦戸湾岸は、高潮に見舞われてしまった。地盤の低い地域は軒並み浸水。大雨による浸水と高潮による浸水で、今も県民の記憶に残る10号台風の災害が発生したのが、弘化台が運用を開始した3年後、浦戸湾東岸が埋め立てられた7年後の1970年。
地形や自然を無視した埋め立てが、その高潮被害を助長した、ということも言われ、西岸の埋め立ては休止されることになった、という歴史。
もし。
西岸が東岸と同じように埋め立てられていたら。
考えるだに恐ろしい浦戸湾の風景になっていたのかも知れません。浦戸湾は、孕半島の狭い部分から南へまっすぐの川みたいになっていた。浦戸湾に浮かぶ島も、風光明媚な海岸線も、なくなっていた。
そこに工業地帯ができたとしたら。それで高知の産業経済は発展していたのだろうか。いや、現代から見返してみても、そうなっていたとは決して思えません。それは間違いない。
やはり、目先の利便性、効率性よりも大切なのは、どんな場所でどうやって暮らしたいか、という思想。今の風景と昔の風景とを見比べ、西岸も埋め立てられていた場合の想像風景と見比べてみたらどうだろう。そこにある思想は、どんなものだったのだろう。
と、台風の浦戸湾を見るたび、考えてしまいます。
それはともかく台風。
今のところ、工場も順調ですし、瀬戸内海の橋も渡れる模様なので一安心。本州の皆さん、いつもの通り、弊社の製品をお楽しみ頂けます。
瀬戸大橋は、明治時代の大久保諶之丞さんの発想からつながる思想の延長に、ある。
お陰で、昨日高知で搾乳した牛乳を、明日の朝には関東でも飲んで頂くことができる訳だ。
インフラ整備や都市計画で一番大切なのは、思想。