ハマグリ丁の遊び心〔5179〕2017/06/20
2017年6月20日(火)曇ってます
久々に、大気の中に水分が多い朝。今日の午後から降り始める予報。いよいよ、梅雨か。まあ、そんな時期だ。降らんと困ります。季節は季節らしくちゃんちゃんと進むのが、一番。
さて。
今朝は用事があって、高知の街の中心部。ここは、高知城の南東。丸の内緑地の南東、お堀を渡る橋のところ。僕らが子供の頃は、この橋を渡ったところに中央公民館がありました。
その橋の向こう、左右に走る道路は、帯屋町。いや、今は違いますが、元来は帯屋町。
山内一豊さんが高知の城下を建設した際、お城の南の内堀沿い、東西にまっすぐな道をつくりました。西は升形、東は今の大丸のところまで。つまり、上級武士が居住する「郭中」を東端から西端まで貫く道。藩政期初期には、その道の東端の南側に大きな商家が並び、そこに豪商帯屋勘助が居たので、帯屋町と呼ばれるように、なった。そう言われてます。
17世紀中頃過ぎには、その商家群もなくなり、郭中は上級武士だけが居住する、特化したエリアになりました。なので、帯屋町には、上士の邸宅と役所や公的な建物ばかりが並ぶように、なった。
そんな訳で、その向こうの左右に走る通りは、帯屋町だった。
緑色の屋根の、一階がコンビニになっちゅう建物、そしてその右側の日本家屋の立派な門。そこは、今も、17世紀中頃から土佐藩の家老を代々つとめた五藤家の持ち土地、やと思います。違うちょったらごめんなさい。
立派な門の家は、以前は五藤家の方々が住んでましたが、今は、豆腐料理の立派なお店になってます。こないだ初めて食べましたが、おいしかったです。そのお店をやっているのは五藤さんではなくて田中さん。おいしかったですよ、田中さん。
さて。その左手の、南北の道。向こうへ行くと電車通り。藩政期は、本町。
元禄十一年(1698年)、高知の城下で大火がありました。この界隈は全部燃えてしまった。で、火災からの復興計画の中で、それまではなかった、この、帯屋町と本町を結ぶ南北の道が通ることになった訳だ。
以前にも書きましたよね。火によって開かれた道。火で開いた、という訳でいつしか人々は「ハマグリ丁」と呼ぶように、なる。
今だとね。そんな不謹慎な、とネットで叩かれることでしょう。火事でできた道が「ハマグリ丁」ですきんね。しかし当時はおおらかなもの。こういった遊び心があったのが、江戸という時代かも知れません。
そう。
江戸時代の日本人は、決して、謹厳実直な、武士道満載の、道徳心に満ちた民族なんかではありませんでした。それは悪いことではなく、遊び心に溢れた、かなり自由な民であったと思われます。
庶民が「ハマグリ丁」と呼んだものが、いつしか、正式な町名のように皆が使い出す。そんな時代であったのだと、思う。良い時代だ。
僕ら、ものづくりの会社も、もっともっと遊び心が必要だと実感してます。開発の発想にしても、商品の名前にしても。遊び心に溢れ、楽しいものが、きっとお客様の心に響く。広がってゆく。
もっともっと、皆で、遊びまくってみたい、今日この頃。