浅田の桜〔5109〕2017/04/11
2017年4月11日(火)雨
昨日から、雨が降りつづく。満開の桜は、それでも持ちこたえ、まだ散ってません。ここは九反田の北。大鋸屋橋北詰から西の方向を撮影しました。今朝、4時過ぎ。小雨が降りしきる、堀川。
左手には高知市文化プラザかるぽーと。
この桜並木は、桜トンネルになってまして、高知市内でも有数の花見の名所。雨の中ですが、今も満開の桜が辺りを圧倒してます。
ところで。
こないだのにっこりで、寛文己酉高知絵図の頃、つまり、1669年頃の堀川は、この橋界隈で行き止まりになっていた、と、書きました。南北の横堀も、東西の竪堀も、ほぼ完成していたんですが、九反田と農人町は、この前の辺りで陸地でつながっていました。
貞享三年高知城下絵図、つまり1686年の絵図では、その陸地は開削され、横堀と竪堀は十字に交差して流れる形になってます。1669年と1686年の間に、この向こうの陸地は開削されて堀になったことが、その絵図で、わかる。
さて。真央ちゃんが引退しましたね〜。浅田真央ちゃん。実力ももちろんですが、その存在感も、すごい。もう、こんな選手は出現しないんじゃあないか、と思わせるようなすごい選手でした。お疲れ様でした。
寛永十三年〜寛文元年図、というのが、ある。寛文己酉高知絵図の少し前。なので、もちろん、この向こうは陸地に描かれてます。その陸地には「浅田」と書かれてます。そう。浅田だったんだ。もちろん、浅い田んぼでしょう。九反田は湿地帯で、九反の田んぼがあるのみであった、とされるのであるが、その「浅田」が九反に含まれるのかどうかは、不明。
真央ちゃんのご先祖も、ここにあったような浅い田んぼのエリアに住んでおったんでしょうかね。どうでも良いことですが。
そうそう。こないだ、この大鋸屋橋は、近くに大鋸屋さんがあったのでそんな名前になったのではないか、と適当なことを書きましたが、違いました。この橋の南詰に、藩の作事方のひとつ、大鋸屋方役所があったからだそう。このにっこりは、時々、適当なことを書いてますので信用したらいけませんね。
九反田のトップワン四国や九反田公園の界隈に、寛永九年(1632年)、浦戸から称名寺さんを移してきて二代藩主忠義公の奥様の菩提寺にしました。しかし1660年に火災で焼け、潮江村に移された跡地に、藩の御米蔵が置かれたと言います。その頃から、ここは高知の城下の物流拠点となっていったのでありました。
浅田は開削されて堀川となり、竪堀、横堀が水運の大動脈になる。それは、そのかるぽーとの場所に中央卸売市場があった頃まで続きました。
今は堀川も物流の機能を喪失し、はりまや橋の下は埋め立てられ、竪堀と横堀の十字路は、暗渠に。
浅田は、堀川となり、今は、桜満開の、広場。