酪農組合の花見と未来〔5104〕2017/04/06
2017年4月6日(木)曇ってます
今日はこれから雨になる予報。週末にかけて、ずうっと雨になっちょります。その為でしょうか。昨夜は花見客、出てました。
僕も出てました。
高知城の北側、辷山の北側に、高知市酪農組合の事務所がある。そこで、昨日はお昼の12時から恒例のお花見。関係各位集まって賑やか極まりない、お花見。香川から帰った私は、少し遅れて参加。しかし、会社で打合せがあったので、飲まずに過ごし、途中抜けて会社へ。
ミーティングが終わって市内へ帰ってきてみると。午後5時。まだ、やりゆう。まだ、とてつもなく賑やかな酪農組合花見の宴は続いていました。で、そこに合流。その場所で6時過ぎまで飲んじょいて、ひろめ市場に移動して延長戦。8時半まで。
僕は5時からですが、他のメンバーは延々8時間半。お疲れ様でした。本当に。花見は体力だ。
そして、昨夜、ここを通って帰りました。まだ、たくさんの団体さんが、やってました。堀川のお花見。
写真は、今朝4時半過ぎの堀川。昨日の花見の痕跡はまったくなく、静かな静かな、堀川。大鋸屋橋から撮影しました。花はね、こんな感じ。満開には程遠い。もう、4月6日になると言うのにね。しかし、これから雨の日が続くというので、昨夜花見を敢行した方も多かったに、かありません。
この大鋸屋橋、いつ頃からあるのか。
天保元年高知之圖というのを見ると、この場所にヲガヤバシ。1831年。近くに大鋸屋があったんでしょう。ところが、藩政期後期に描かれたとされる浦戸湾風俗絵巻を見ると、この橋は「高橋」。
寛政九年(1797年)作成の御町中辻番所絵図にも、「高橋」。現在の木屋橋がサエンバ橋で、ハタクラ橋は、僕らが知っている場所に、もう、架かってます。
さて。
高橋。そう。堀川を遡上してくる船は、堀詰で、荷下しをしたり人が乗降したり。なので、この橋の下をかなり頻繁に往来してました。そこそこ大きな船もね。
そこに橋を架ける訳だから、かなり高い橋でないと、下を船が通り抜けられない。そんな訳で「高橋」であったことは、容易に想像できます。今の大鋸屋橋よりも高い橋であったのかも知れません。
更に調べてみよう。
延享三年(1746年)の高知城郭図絵。この絵図では、この橋には名称が書かれておらず、この西の、以前幡多倉橋があった場所、つまり、寛政九年図でハタクラ橋と書かれている橋が、「高橋」。
まあね。どっちの橋も、下をそこそこ大きい船が通り抜けられるように、高い橋であったのは、間違いないでしょう。
更に調べてみよう。
幾度かこのにっこりでもご紹介した寛文己酉高知絵図。寛文九年(1669年)頃の絵図。
なんと、この頃は、九反田と農人町は陸続き。堀川を遡ってくると、今の旭ロイヤルホテルの辺りで突き当りになってます。
堀詰から流れてくる堀川は、四ツ橋のところで南に流れを変え、九反田の南側を東流して鏡川へ流れ込む。そんな風景。
だから、ここには大鋸屋橋も高橋も、ありませんでした。
どうでも良い話を、朝っぱらからゴメンナサイ。高知市の酪農家さんの未来は明るい、と確信できた昨夜の花見の余韻。若手が元気なのは、本当に嬉しいことです。