宿毛小学校、二人の女性の歌碑〔4984〕2016/12/07
2016年12月7日(水)晴れ!
良いお天気。冷え込みました。昨日の夜くらいから冷え込んできた、高知県。
昨日は宿毛に泊まっちょりました。高知県の西端、宿毛市。朝、静岡県内にある乳業メーカーさんに営業した後、電車、新幹線、マリンライナーを乗り継いで香川県の坂出駅。駅前の駐車場に停めてあった車に乗り、一気に宿毛まで。まあ、遠いっちゃあ、遠い。で、なんとか、幡多酪農組合さんの忘年会に間に合いました。飲んだ飲んだ。
昨年までは宿毛と中村の中間点のお店で、昼、やってました。今年から夜、宿毛の街中のお店でやることになった幡多酪農組合の忘年会。
宿毛の商店街、いつの間にかアーケードが撤去されちゅうので、全然違う街に見えてしまいました。色んなことが、変わってゆく。そんな時代です。
で、日付が変わるまで酪農家さんたちと飲んでおったもんで、今朝はほとんど走れませんでした。
ここは、宿毛小学校の敷地内。小学校の塀の一部が開いておりまして、中に、碑と説明文。校外の者も、見れるようになっている。この写真の奥に見える、四角い碑。
碑には「婉の歌」と刻まれ、「つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり」と、ある。ここ、宿毛小学校のプールの辺りに、野中兼山の子供達8人が連れてこられ、40年という長きにわたって幽閉されたのでありました。
4女の婉が、幽閉されたまま亡くなっていく兄姉の悲しさを歌った、歌。
そして近くに、自然石の碑がありました。この写真の碑。
北見志保子さんの歌碑だ。
山川よ 野よあたたかきふるさとよ こゑあげて泣かむ 長かりしかな
以前、幾度かご紹介したことのある、宿毛出身の歌人、北見志保子さん。自由民権運動に奔走し、若くして亡くなった父。遺された6人の子を、女で一本で育てた、母。
極貧の中、裁縫教員養成学校を卒業させて貰う。その母が亡くなり、上京して、短歌の世界で頭角を現していく、志保子。
この歌碑の歌は、戦後、帰郷した際に詠んだ歌。彼女の長く辛かった思いが溢れる歌。
また、帰郷した際、母の墓前で号泣しながら捧げた歌があります。
わが歌の 石ぶみにしるすうたごゑの 地(つち)の底なる 母にひびけと
北見志保子さんと言えば、平城山。ならやま。
同じ高知県出身の平井康三郎作曲、北見志保子作詞。
人恋ふは かなしきものと 平城山に もとほりきつつ 堪へがたかりき
志保子さんの生家は、この小学校の北側に隣接。
この校庭に、波乱万丈の人生を送った2人の女性の、歌碑。それぞれ、思いは違うが、溢れ出る悲しみ、激情。
野中一族のことと婉の歌については、説明板がありました。北見志保子さんの歌碑についても、小学生たちにわかるよう、なんらかの説明があったら良いな、と、思いました。