本宮神社の八頭神社〔4981〕2016/12/04
2016年12月4日(日)晴れのち曇りのち雨
12月最初の日曜日。朝のうちは晴れちょりました。しかし午前中には雨に。そんな中、走って参りました。期せずしての雨中ランは、心地良かったです。
今日はですね、久々に、街中ラン。堀川や新堀川、今は暗渠になっている水路跡などなどを楽しみながら、市内を西へ。いや、なかなか面白い。今まで気付かなかったものや、姿形が変わってしまったもの、などなど。街中の風景には興味が尽きません。
堀川の風景も、新堀川の風景も、このにっこりを始めた13年前からは随分と変わりました。しかし、高知の街は、藩政期初期の、山内一豊による文脈が受け継がれていっているものだ、ということも、よくわかる。
間違いなく、高知の城下は河内の城下で、水郷都市であったのだ。
藩政期初期の、正保絵図や慶安五年図という古い絵図を見ると、四国山地から流れ出してきた川が現在の旭界隈で分岐し、高知の城下を南北から挟むように流れていたことが、わかります。と、申しますよりも、鏡川の中洲のような場所に、城下町が建設されていった、と表現した方が正確かも知れない。この図を見れば一目瞭然だ。
現在の江ノ口川は、サンプラザ塚ノ原店当たりから杓田を流れ、旭で、鏡川からの分流と合流し、高知城の北側を流れている。
昔からそうであったでしょうが、慶安五年図では、江ノ口川は、もっと大きく書かれています。
そう。その頃は、江ノ口川は「大川」であり、鏡川(潮江川)よりも広かったと言います。大川。鏡川よりも広くて豊かな流れであった。
大川と潮江川の分岐は、当時も、本宮町界隈であったと思われます。今も、そう。
藩政期初期の頃は、なんという名前で呼ばれていたのかは、知りません。
現在の紅葉橋の所に刑場ができ、雁切川と呼ばれるようになったのはいつの頃なのか。
写真は、本宮神社さん。このしゅっと南を、鏡川から分かれた小川が、流れています。これが、旭で、江ノ口川と合流する。
久々に本宮神社さんにお参りしました。
以前、本宮神社さんの、上部が桜の木になった杉の木、という珍しい樹木をご紹介しました。この写真、僕の向こう川に見える杉の木が、そう。
そして手前に、新しい祠が鎮座ましましちょりました。八頭神社と書かれている。
ん?
八頭神社?
確か、旭のイオン(昔のサティ)の近くに、鎮座していたのが八頭神社であったと記憶します。
戦国土佐の終盤。一時は土佐を支配する勢いを見せていた本山氏と、どんどんと勢力を伸ばしてきた長宗我部氏の、戦国土佐事実上の決勝戦。
鴻ノ森には、本山氏方の高ノ森氏。そこに攻めかかる、イケイケドンドンの長宗我部元親軍。
激烈な合戦が繰り広げられ、旭のイオン近くで、8名の武者が首を斬られ、放置される。その八人の武者を、地元の人々が祀ったのが、八頭神社ということでした。
この説明板を読んでみると、昨年、その八頭神社が、ここに遷座され、祀られることになったと書かれていました。そうか。そうだったのか。
あの、元の、8人の首が斬られたという場所は、今はどうなっているのだろうか。少し、気になりますね。8人が斬られ、祀られた場所ですきんね。
ともあれ、こうやって、人々の思いや願い、信仰の姿も、いつしか変わってゆく。元のいきさつ、本当のことは、どんどんと、忘れられていくのでしょうか。少し、寂しい。