九反田橋の謎、解明〔4971〕2016/11/24
2016年11月24日(木)晴れ
昨夜は降ったので、地面が濡れています。写真は今朝、4時半前の九反田橋上。空には雲。星も月も雲の向こうですが、徐々に晴れてきております。
東京の都心部でも、今朝、初雪が降ったというニュース。11月に雪か。東京で。東京で11月に初雪が観測されたのは54年振り、と言いよりました。54年前と言うと昭和37年で、僕は1歳。それ以来というのは、なかなかに感慨深いですな。
この、現在の九反田橋が架橋されたのは昭和39年6月。今から52年前で、僕は3歳。東京で11月に初雪が降った2年後。九反田橋、近年耐震補強工事が施されたり、欄干の塗り替えが行われたりしましたが、基本的な姿は、僕が子供の頃のまんまだ。
天神橋近くの貸しボート屋さんでボートを借り、この九反田橋の少し下流、鏡川河口あたりまでボートを漕いで遊んだ思い出。
しゅっと向こうのアーチ橋は、僕が高校生の頃にできた水道橋。高校の教室から、その工事の風景が見えたので、最初は人間が渡る橋かと思いよりました。洒落た橋ができゆうよ、と。そんな訳、無いんですけどね。
水道橋の向こうに雑喉場橋があり、九反田橋と雑喉場橋の間隔はただでさえ短いのに、その間にもう一つ橋ができる訳、ありません。
九反田橋や雑喉場橋、いつ頃架けられたのか。
昭和23年、米軍が撮影した航空写真を見ると、ハッキリクッキリ、両方の橋が見えます。更に遡り、昭和8年測量の参謀本部作成地図を見ても、やはり、あります。この狭い間隔に、キチンと2本の橋。
昭和4年発行の高知市街地図を見ても、両方、架かっている。
しかし。
昭和2年発行の高知市図。その地図では、雑喉場橋は見えるものの、九反田橋は見当たりません。昭和2年から昭和4年の間に、最初の九反田橋が掛けられたのか。
で。明治30年発行の土佐國高知市街圖でも、雑喉場橋、見えます。潮江橋のところには「カリバシ」との表示。河川敷と河川敷の間に渡された短い仮橋ですな。
で。明治25年製圖高知市街実測圖には、潮江橋も雑喉場橋も、ない。鏡川に架かる橋は、天神橋と雁切橋だけ。藩政期から架けられていた、2本の橋。
雑喉場橋の場所と潮江橋の場所には、渡し舟のマーク。
渡し舟があった場所に、明治20年代に橋が架けられた。最初は人が渡るだけの小さな橋。それから大きな橋に架け替えられ、昭和になってから、ここに九反田橋も架けられた。
雑喉場橋があるのに、100mしか離れてない場所に九反田橋を架けたのは、よほどの需要が創出されたからでしょうか。潮江地区と九反田界隈を橋で結ぶ必要性が急速に高まった、と。
さて。その需要とは何だったのか。
重要な出来事として、昭和5年、九反田に、全国で2番目の中央卸売市場開設、というのがあります。
こんな狭い間隔に、昭和3年か4年頃、橋が架けられた理由。それはやはり、昭和5年、九反田に開設される中央卸売市場へ物資や人が往来することを見込んでの事としか考えられない。タイミングとして、ドンピシャりですきんね。
九反田に中央卸売市場ができなかったら、潮江橋から下流の鏡川には、昭和55年に鏡川大橋が架けられるまで、雑喉場橋だけであったのかも知れません。
東京オリンピック開催に合わせ、都心部と選手村などを結ぶ道路建設が計画されているのを思い出しますな。築地市場移転が遅れたことから、大きく計画変更することを余儀なくされた、という、あの道路。
高知では、九反田に中央卸売市場開設の許可が下りたのが昭和4年。許可が下りようが下りまいが、九反田橋は、もう、完成しちょりましたね。