柏尾山頂はどこだ〔4967〕2016/11/20
2016年11月20日(日)晴れ
良いお天気。暑いくらい。いや、ホント、11月後半とは思えないような暑さの日曜日。
今日は久々に南嶺。それも、久々の鷲尾山、烏帽子山、柏尾山縦走をやってきました。いや〜、暑かった。でも、秋の山はとんでもなく心地よかったです。汗びっしょり。
今日の登山口は深谷。六泉寺の奥。家から深谷まで走り、一気に鷲尾山の山頂へ駆け上がる。で、鷲尾山頂では立ち止まらずにそのまま尾根を下り、そして駆け上がって烏帽子山頂。いや〜、心臓バクバク。苦しいのなんの。苦し心地良い、家から鷲尾山頂、烏帽子山頂の一気駆けでした。
烏帽子山頂にや石鎚神社さん。その脇に三角点。頂上。以前から立てられている表示板には「烏帽子山 358.7m」と書かれている。その横に、最近立てられた木製の標柱。そこには「烏帽子山 三五九・一米」と。さて。双方、40cmの差。どう解釈すべきか。
で、帰ってきて地理院地図を見ると359.1mと書いてあるので、それが正式な見解であるのだろう。
今日は烏帽子山頂から取り付け道路を下り、白土峠を通って、柏尾山の山頂を攻めてきました。2年半ぶり。
白土峠は、かつて、春野や宇佐などと高知の城下を結ぶ往還の、峠。人の往来はかなり多かったと言います。それも、戦争の頃までは、人々の重要な生活どうであったにかありません。地理院地図で白土峠の標高を見てみると231m。南嶺越えは、結構な標高の峠に登らんといけませんでした。231m越えがメインルートの往還ですきんね。昔の人は、すごい。
その白土峠から尾根を一気に駆け上がると柏尾山。かしお山。現代では、南嶺で登山客の多い山と言えば鷲尾山。そして烏帽子山。柏尾山は、あまり有名ではないし、登る方も、少ない。しかし柏尾山は、古来、熊野信仰系の大きなお寺さんがあったり、中世の山城があったりした、実に重要な役割を果たしてきた山でした。その重要さでは南嶺随一かも知れない。
柏尾山の標高は、地理院地図で見ると323m。白土峠との標高差は90m。人々の往来が多い往還路の峠から近い山なので、信仰の中心が置かれたり、戦略拠点が置かれたりしたのか。
柏尾山に山城が築かれたのは、南北朝の頃かも知れない。それから、支配者の変遷があっても、中世末期まで山城であり続けた、柏尾山の城。行ってみるとわかりますが、明らかにいくつかの段々に分かれ、平らに整地され、詰の段周囲には土塁があり、詰の段手前には堀切。山城の姿を、今もハッキリと見ることができます。
写真は、山頂、詰の段の入り口のところ。立ち入り禁止と言われてもね。山頂ですきんね。入ってしまいますよね。右手には詰の段を囲む土塁の痕跡。
詰の段から西へいくと、大きな砕石場になっているので、危険なんだそうだ。
さっきから詰の段、山頂と書いてきました。地理院地図でも323mの標高表示が、その場所にある。
ところが、実際に自分の足で登ってみると、一番高い場所は違うような気がして気がして。
そうそう。勘違いしやすいですが、高知さんさんテレビやNHKのテレビ塔がある場所、あそこが山頂ではありません。まだ、もうちょっと西へわかりにくい山道を行かんと、山頂、柏尾山城跡ではない。柏尾山へ行かれる方は、気をつけてくださいね。貴重な城跡を見逃さないように。
でもね。
そのNHkのテレビ塔の東側。あの界隈が一番高いような気がしてなりませんでした。そこで、帰って来てから確認しました。地理院地図。
やっぱりそうだ。
地理院地図は、どんな場所でも、その標高を見ることができるようになってます。その機能で確認すると、テレビ塔の東に、326.9という標高の場所を確認。2013年9月のにっこりでご紹介した写真の界隈だ。地理院地図標高表示より、4mも高いではないか。これはもう、誤差や測定方法の差ではないよね。
一番高い場所が、その山の標高ではないのか?
謎が深まる秋の山。