七里の渡しと熱田台地〔4957〕2016/11/10
2016年11月10日(木)名古屋は薄曇りだがや
そんな訳で、今朝は名古屋。昨夜は、名古屋市の北、岩倉でお客様と飲んでました。名古屋駅から快速特急で一駅、10分ちょっとなのに、駅前は実にレトロ。で、岩倉は、山内一豊公出身地ということで、その記念碑もあり、商工会も山内一豊行列などというイベントで盛り上げようとしております。高知県人でそんなこと知っちゅう人、あまり居ませんよね。
昨日のアメリカ大統領選挙はビックリしましたが、それはともかく。
今朝は名古屋駅前から久々に熱田神宮RUN。地形を堪能しながら、熱田神宮と七里の渡し界隈まで走ってきました。熱田神宮までは幾度も走りましたが、七里の渡しは、初めて。
七里の渡し。熱田神宮の南、国道1号線を渡り、少し南へ行ったところに、あります。旧東海道の渡し場。
東海道と言いますと、川を渡る以外はずうっと陸路と思われがちだが、ここ、熱田神宮の南から桑名までは海路。九四国道フェリーが国道であるのと同じ。同じかな?
で、ここから桑名まで7里あったので、七里の渡し。熱田神宮さんに近いので、宮の渡しとも呼ばれた交通の要衝。
東海道の渡し場で、熱田神宮のしゅっと南。尾張名古屋の表玄関とくれば、栄えないはずが、ない。藩政期には、それはそれは賑わったことでありましょう。
今はこのような標柱が立てられ、静かな公園に整備されちょります。今も、ここから船に乗ると伊勢湾に出ることができる。ここから堀川を遡ると、名古屋城まで行けます。便利極まりない場所であったでしょうな。
堀川は、熱田神宮のある熱田台地の西裾に沿うように、掘られています。台地と沖積平野の境目。昔の都市計画は、自然の地形を実に巧く利用している、というのは、このにっこりでも何度も書いてきました。
この界隈。太古の昔から、有力者が跋扈していました。
その証拠に、記紀神話の時代から、この地は重要な役割を果たしてきています。近畿の中央政権の命運を左右するほど。
壬申の乱の際も、大海人皇子は、一旦こちらにやってきて態勢を整え、そして一気に勝負を決めに戻って行った。この界隈有力者の後ろ盾を感じさせます。
熱田神宮の北側、熱田台地上には、いくつかの古墳があります。やはり、ヤマト政権が確立していく時代に、熱田台地を本拠とし、また、伊勢湾を通じて海上も支配した有力者が居たのでありましょう。日本武尊の陵墓という伝説をもつ白鳥古墳もあります。
そして、いつしか、熱田神宮が神聖にして重要な場所として祀られるようになった。
と、このにっこりひまわりを、名古屋から三重県に向かう近鉄特急の車内で書いておるんですが、今、桑名駅に到着しました。
おう。この写真の場所から、ここ、桑名までが海路であった訳だ。
海路であった理由は、やはり、濃尾平野の川の多さでしょう。そして湿地帯が多い。たくさんの人が往来するには、自然環境が過酷すぎる。と、いう訳で、この辺の事情に詳しい徳川家康は、街道を海路にしたのでしょうか。
太古の昔、熱田台地に盤踞した人々も、外界との往来は、基本的に海路であったでしょう。
熱田神宮と七里の渡しの位置関係を見ていると、太古の昔の有力者は、海の支配者であったことが、見て取れる。