帯屋町2丁目の11年〔4910〕2016/09/24
2016年9月24日(土)晴れ!
良いお天気。こんなお天気、続くと良いですね。
で、今朝は帯屋町。朝、9時頃の、帯屋町2丁目の風景。このところ、一番変わったと言われる帯屋町2丁目。
ところで、帯屋町。
藩政期初期から帯屋町。以前にも書きましたが、当時の帯屋町は、東は現在の大丸前から、西は升形の西までの長い長い街。お城下で一番長い町、帯屋町でありました。
昨日の新聞に、高知市役所と市民図書館の建て替えに際しての発掘調査のことが載っちょりました。その場所の遺跡名は「帯屋町遺跡」。この名称に違和感を覚えた方も多いのではないかと思いますが、あの界隈は、まさしく帯屋町であったのであります。
1670年頃まで、帯屋町東部の南側には町屋が残り、豪商帯屋勘助さんも、その界隈でお店を開いておりました。ので、帯屋町。その後、町屋は郭中から追い出され、帯屋町は上級武士の邸宅が並ぶ町となったのはご承知の通り。
幕末の動乱期。
文久2年(1862年)に、まさにこの場所で、吉田東洋さんが暗殺された。そんな歴史の現場である、この交差点。
明治になり、武家屋敷は解体され、公共の施設などが並ぶようになった、帯屋町。その後、病院がこの界隈に集中するようになる。
帯屋町、特に2丁目界隈は、病院街といった様相を呈したのでありました。その状況は戦後まで、続きます。
で、僕が子供の頃。追手前小学校に通い、帯屋町を遊び場としていた時代も、このアーケードの真ん中に大きな病院がありました。町田病院。
その大きな病院は旭へと移転し、跡地にできたのがショッパーズプラザ高知。高知で初めてのショッピングセンター?的なものでございましたな。我々は「ショッパーズ」と呼んでいた施設。
その「ショッパーズ」はダイエー傘下となり、「ダイエーショッパーズ」に。僕が仕事をし始めた頃の話。
そして月日は流れ。
ダイエーの店舗整理で、ダイエーショッパーズは閉店。2005年11月30日のこと。今から11年前か。
その日、丁度この写真と同じアングルで写真を撮り、にっこりでご紹介しちょりました。現在カフェになっちゅう角っこには「Daiei」の大きな看板。この日を最後に、ダイエーの建物は取り壊され、帯屋町2丁目のアーケードには巨大な白い壁ができました。2丁目、苦難の時代。こんな商店街に誰がした?という怒りは、矛先を向ける先もない。巨大資本に翻弄され、捨てられた地方の悲哀。
その跡地をどうするか、という議論は行ったり来たり。で、やっと昨年。そう。白い壁面10年目に、やっと、再開発が始まった。チェントロという商業施設のビルが建ち、上部はマンション。
スタバもでき、ひろめ市場に近いという立地もあって、人の流れが戻ってきました。
ひろめ市場にしても、チェントロにしても、地元の皆さんの発想、頑張りでできていったもの、というのが嬉しいですよね。行政主導ではなくて、民間の知恵と努力で。
だから、うまくいっている。
ひろめ市場にしても、行政主導で、観光客誘致、などという大義面分で進めていたものなら、とっくに昔に失敗しちょったと思います。地元の皆さんが楽しむ、というのが基本で、それに徹したからこその成功でしょうな。
これから街がどうなっていくのか。どんな変化を見せていくのか。
この11年間の変化を見るにつけ、これから先のことは想像もできません。が、志をもって、良い街にしていきましょう。みんなでね。