あふく世の いしふみ〔4896〕2016/09/10
2016年9月10日(土)晴れ!
良いお天気。来週の週間天気を見ると、雨のマークが多いですな。もう、秋か。いや、まだまだ残暑厳しくあってもらいたいところ。
さて。
こないだ、8月17日のにっこりで、源頼朝の弟、源希義さんが、平治の乱の後に土佐に配流され、住んでいた場所の考察を行いました。最新号の「土佐史談」に、郷土史家の朝倉先生が書いておられる論文をもとにして。
土佐では、源希義と言えば介良の冠者。介良に住み、介良に墓所がある、とされる人物。
朝倉先生は、それを真っ向から否定するんでありますね。なかなかできることではありません。
源希義さんが介良に住んでいた、とされるのは、鎌倉時代に成立した「吾妻鏡」に書かれているから。この「吾妻鏡」、重要な文献ではありますが、ところどころ、間違いや嘘も散見される文書なので、気をつけんといけません。
こないだ書いた、鶴岡八幡宮での源実朝暗殺事件の顛末についても、「吾妻鏡」だけを信用すると、間違ってしまいます。
で、朝倉先生の論考では、こないだも書いたように、源義朝の息子にして頼朝の同母弟、源希義さんが配流地の土佐で住んだのは、国衙の近辺であったのではないか、ということになっちょります。
で、頼朝挙兵に際し、そこを脱出した希義さんを追いかけて討ち取った蓮池権守家綱とか平田太郎俊遠とかは、その土佐国での重要な役職に鑑みて、やはり国衙近辺に住み、国衙に勤務していたのではないか。
土佐では数少ない源氏方、夜須七郎行宗と合流すべく、国衙を脱出した源希義は、追いかけてきた家綱らによって、年越山の麓で討たれた、という説。
定説では、希義さんは介良に住んでおり、そこを脱出して年越山で討たれた、というもの。
地理的関係を見てみると、朝倉先生の説でないと、なんか、おかしい。
介良から夜須へ向かうのに、なぜ、わざわざそんな北回りをしなければならなかったのか。国衙からなら、理屈が通る、という訳だ。
そこで、今朝は、その土佐国衙があったとされる場所に来てみました。紀貫之関係の碑などが並ぶ、公園。ホノギ名が「ダイリ」ということで、この界隈が国衙の中心に比定されちょります。
で、写真をご覧ください。
その国衙跡から、ほぼ真南を撮影した写真。向こうに山が見えます。あの山の左端、山裾が、源希義さんが討ち取られた、とされる場所。
ここから言うと真南。これはちょっと、違和感。
もし、ここに住んでいたとするならば、真南へは逃げず、南東方向へ進んだのではないか。すると、あそこは通らない。介良に住んで、北回りはしないのと同じ理屈だ。
もし、朝倉説が正しいとして考えられるのは、希義さんが住んでいたのは、ここよりも西、国分寺界隈であったのではないか、ということ。国分寺界隈からだと、なんとなく、あの山裾は南南東だ。
などという想像をしながら、この公園に立つ碑などを眺めておりました。
写真右端。桜の木の下の、四角い碑。
ここに紀貫之が住んでいたことに思いを馳せ、天明五年(1785年)に建立された「紀子旧跡碑」。東西南北の面に、権大納言とか源とか清原とか、偉い人の名前が刻まれ、東面に権大納言資枝さんの歌。
あふく世に やとりしところ 末遠く つたへんためと のこすいしふみ
良い歌。思いが伝わる。
この、泡のような儚い世の中ではあるが、ここに紀貫之さんが暮らしたことを、永遠に伝えていきたい。たぶん、そんな思い。
そして南面には「侍従 藤原豊雍 篆」。おう。土佐藩の歴代藩主の中で、最高の名君とされる山内豊雍さんではないか。
良い場所に、良い碑だ。