天神の大クスノキは、いつから〔4889〕2016/09/03
2016年9月3日(土)薄曇り
気になる台風12号。
こないだの台風10号は、甚大な被害をもたらしました。
一昨年の3月、素晴らしいヨーグルトで成功していらっしゃる岩泉乳業さんを訪問させて頂き、貴重なお話を伺いました。岩泉町にあるその工場も、今回の台風で甚大な被害を被られたとのこと。
天井近くまで濁流が押し寄せたとのことで、復旧にはかなりの時間がかかるそうです。心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復旧を、お祈り申し上げます。あの素晴らしいヨーグルトが、再び製造できる日を心より待ち望みます。なんか、できることはないでしょうか。
自然災害は、人知を超えた破壊力で我々を襲う。
昔から人類は、その災害を少しでも小さくしよう、と、努力してきました。
写真は、今朝5時前の鏡川。天神橋南詰から少し西へ行った堤防上から撮影してみました。この下の河川敷は駐車場になっており、大雨で増水しそうな場合は、車は避難させられます。今はまだ、静かな駐車場。
写真右端に大きな樹木。幾度かご紹介した「天神の大クスノキ」。今から35年前、昭和56年に掲げられた説明板に、樹冠の大きさが、東西13m、南北18mと書かれています。今はもっと成長しちゅうでしょう。樹齢数百年、とされる大きなクスノキ。
この写真ではわかりづらいですが、クスノキは、この堤防の上に屹立します。堤防道路の数十センチ下が、根本。
つまり。この鏡川南岸の堤防は、このクスノキが植わった時から、その高さであった、ということか。なるほど。
で、山内一豊さんが高知の城下町を建設するに際し、最優先したのは城下町中心部の郭中。そこを守る為、遊水地帯をつくったりしています。一豊さんは、治水のスペシャリスト、土木の専門家。
鏡川の堤防も、当然、北側を高く、南側を低くしたと考えられる。増水した際、まずは南側の堤防を越えて流れるようにすることで、北側、つまり郭中を、守る。
と、いうことは、この南岸の堤防がクスノキの根本の高さ以上であったとするならば、北岸の堤防は、もっと高かった訳だ。現在の唐人町、大きな家が並ぶ堤防上の町の高さは、藩政期初期から、今の高さに近かったということか。城下町建設は、かなり大掛かりな土木工事であった、ということが理解できます。
鏡川(潮江川)や江ノ口川(大川)には大掛かりな堤防が築かれる。しかもその堤は霞堤で、所々、わざと切ってあり、大水の際にはそこから水を逃し、郭中を守る。旭や神田は遊水地帯となっていた。そんな都市計画。
では、このクスノキが生える堤は、いつ頃構築されたのでしょうか。長宗我部元親さんが岡豊から大高坂山に本拠を移したのは天正十六年(1588年)。城下町の建設を始めるも、三年後には浦戸城へと移っているので、その頃に築かれた可能性は、低い。
やはり、山内一豊が城下町建設を初めてから、か。
17世紀の初め頃、一豊による大規模な城下町建設が始まり、治水の為、綿密な都市計画に基づいて、諸河川に大きな堤防が築かれる。鏡川南岸にも。
その際、天神様にちなんで、誰かがクスノキの苗が植えた。クスノキはどんどんと成長し、大クスノキと呼ばれるようになった。乙女姉やんに泳ぎを習うた龍馬少年は、その大クスノキの下に着物を脱いで、ここで泳いで遊ぶように、なった。
そして明治大正昭和と過ぎ、今も大クスノキは、天神様のシンボルとして屹立している。
この妄想がホントなら、樹齢は、やはり、400年くらいということに、なります。まあ、朝っぱらからの妄想ですが。