下田川河口の地形とタナスカ〔4860〕2016/08/05
2016年8月5日(金)晴れ!
今朝は高知。昨日の最終便でモンて来ました。高知では、昨日の晩方、一雨きたにかありませんね。高知空港から出てみると、大気の熱が少し冷まされた、そんな感じがしました。
昨日、東京駅の濱口雄幸首相襲撃現場についてご紹介しました。そこで、今朝は雄幸橋。
五台山の南。弘化台から北タナスカを抜け、下田川の河口部を渡って高知東部自動車道の方へとつながる道。その、下田川を渡る橋が「雄幸橋」。もちろん、近所で生まれ育った濱口雄幸さんにちなむ橋名。
写真は、その「雄幸橋」の上から撮影した朝焼け。美しい夏の朝焼け。
眼前は、下田川河口に突き出す堤によって区切られた池。左手が堤で、その左側が、下田川河口。ここを走っておりますと、どこまでが元々の地形で、どれが埋め立て部分なのか、実にわかりにくい。わかりますか?
実は、この左手の堤、江戸時代から、下田川河口左岸より浦戸湾に突き出して存在するんだ。で、延びた堤は、この南東で再び陸地につながる。つまり、堤の内側が池になる、という構造。ああ。文字で説明してもわかりにくいですよね。現在の地理院地図がこんな感じなので、想像してみて下さいな。
この堤、江戸時代後期に描かれた「自浦戸到幡多倉橋図」にも、「下田入江堤」として描かれている。当時からあったんでございます。
現在。
地理院地図でもわかるように、ここから南東に延びた堤は、その西側の埋め立て地「タナスカ」と一体化しています。なので、どこまでが昔の陸地で、どこが埋め立て地なのかが判然とせんのですね。
「タナスカ」。
漢字で表記されることはなく、カタカナで「タナスカ」。たぶん、漢字にしたら、「棚州処」。
調べてみますれば、「スカ」という地名は、海沿いの砂地のことをいう。海岸が「ハマ」で、その後背地の砂地が「スカ」。漢字で書くと「州処」。
このタナスカという地名も、たぶん、海岸沿いの砂地が界隈にあったこと、その砂地が平板で、棚のようになっていたこと、などに由来するのではないか。いや、僕の妄想です。気にしないでください。
「スカ」のつく地名と言えば、やはり横須賀でしょうか。あの横須賀の「スカ」も、海岸の砂地であったことから付けられた地名かも知れない。
高知市で言うと、旭地区に「中須賀」という町がある。江ノ口川の、南。
かつて、江ノ口川が大川と呼ばれ、今よりもずっと広い川であった時代、砂州があったのかも知れません。
ともあれ、この下田川河口左岸には、昔から堤があり、池が、あった。池の名は八洲池。その堤の上に、いつしか、お狸様を祀った祠ができた。ご利益がある、ということで、高知の花柳界の女性たちが立派なお堂を建て、池の中にもお堂をつくり、熱心に信仰しました。狸は、 「タ」を抜く、ということで、勝負に勝つ、立身出世する、というご利益があるんですな。
現在は大膳神社という名称。玉垣には女性の名前が並ぶ、珍しい神社が、このすぐ南の池沿いに、鎮座まします。
濱口雄幸さんゆかりの雄幸橋から、下田川河口、タナスカについて考察してみました。