また、トンネルの話〔4800〕2016/06/06
2016年6月6日(月)晴れちょりますな
梅雨入りしたら雨が降らなくなる、という言い伝えの通り、昨日今日と、雨が降りません。今朝なんか、晴れちょりますきんね。次に降るのは明日の晩からにかありません。まあ、心地よいお天気なのでエイですが。
会社の、僕の部屋の窓の外にあるヤマモモ、実が、赤く色づいてきました。食べるには、もうちょっとかかります。
ところで、トンネル。
今朝の写真も、こないだと同じ、稲生の石灰山のトンネル。
こないだ、世界のトンネル技術者の間でも有名な難工事、鍋立山トンネル工事のことを書きました。で、更に調べてみますと、ありますね、色々。難工事であったトンネル。
新幹線のトンネル工事では、上越新幹線の中山トンネルというのが有名にかありません。なんせ、工事の途中でルート変更まで行われ、カーブが急になってスピードが160kmまでしか出せんなったという、伝説のトンネル工事だ。
全長15km弱の、新幹線のトンネルではよくあるくらいの長さ。で、昭和47年に工事が始まって、完成したのは10年後。
で、難工事の原因は、やはり地質、地盤。
途中、2度の大規模な出水があって、よくまあ、死者が出んかった、と言われちょります。
やはり、火山堆積物に覆われた、柔らかい地層。で、結果的に、事前のボーリング調査が十分でなかった、ということになるのだが、巨大な滞水塊があり、とにかく出水に苦しめられた。
工期に間に合わせよう、という上層部の指示もあって、正面突破を試みるも、また、大規模出水。
その際、作業員たちは、真上に掘られた立坑のエレベーターで、数百メートル上の地上に脱出せんといかんかったのが、電源喪失。発電機を下に置いてあったので、水没したのでありました。エレベーターが動かない。
そこで、地上部に電源を切り替えることにするが、電源の技術者が、近くにいない。慌てて麓の町から呼び寄せる。山道をすっ飛ばして駆けつけてもらい、電源復帰、危機一髪で50数名の命が助かった。出水は激しく、アッと言う間に工区は水没したのでありました。
そんなこんなで、新幹線トンネル工事屈指の難工事は、中山トンネルという、実に地味な地味な名前のトンネルで行われたものでありました。
あと、もっと古いトンネル工事で、酷い伝説の難工事が、北海道、石北線の常紋トンネル。
大正3年開通なので、古い。全長507mなのに、それを掘るのに3年かかった。
周囲に人家もない、深い山中のトンネル。
で、このトンネル工事を有名にしたのが、過酷な労働。やはり人海戦術で、しかも、強制労働的なものであったようです。重労働、栄養不足でどんどんと倒れる労働者。亡くなれば、その辺に、埋める。
そんな言い伝えは地元に伝わり、近隣で人間の手や足の骨を拾った、という話がいっぱい。
決定的だったのは、昭和43年の十勝沖地震。地震で損傷したトンネルを補修する工事をしたところ、レンガ壁から60cmほど奥から頭部に損傷のある人骨がでてきたのでありました。他にも埋まっている可能性は、高い、とのことが判明。
昭和55年には、殉難者追悼碑が建てられたそう。そりゃあ、そうだ。そうせんと、出る。
こないだ、土讃線を走りながら撮影した、土佐山田と新改の間のトンネル。あの界隈のトンネルは、それより少し時代が下って昭和初期に掘られたもの。
工事を管理監督した者の人間性、考え方にも左右された、その頃の土木工事。
土讃線では、常紋トンネル工事みたいなことはなかった、と、信じちょります。でないと、大歩危トンネル旧線のこんな探検は、ようしません。