中央公園、堀詰、太古の地形〔4708〕2016/03/06
2016年3月6日(日)曇っちょります
昨日から、「土佐のおきゃく」が始まっちょります。そのメイン会場、中央公園では、今日もラララ春まつり。高知街ラ・ラ・ラ音楽祭の、春バージョン。良いですね〜、おいしい食べ物とお酒と音楽。高知に住むことの幸せを実感させてくれる素敵な時間。
さて。
中央公園の東側には新京橋プラザというのがあります。この辺り、昔は、堀川に流れ込む池があった場所。池には牡蠣舟が浮かび、池を囲むように繁華なビルや商店。高知の街の中心が、ここでした。
人間は、水辺で賑わう。これはもう、太古の昔から遺伝子に刷り込まれちゅう本能と言うたちかまんでしょう。
そして、狭い路地に落ち着き、そんな路地の奥にある穴倉のようなお店で、安心する。
以前にも書きましたが、これは、原初の哺乳類が恐竜などの捕食者から隠れるために、狭い穴ぐらに見を隠して生活していた、そんな遺伝子を今も伝えるものである、という学説を小生が考えました。いや、たぶん、そう。
猫やネズミが、狭い場所に身を落ち着けるのを見るにつけ、その思いは確信となってきたのであります。
狭い路地が好きなのは、哺乳類の遺伝子。
それはともかく。
その、新京橋にあった池は、堀川となって東へ流れ、中の島と農人町の間を流れて鏡川へつながっておりました。では、池の西側は、と言いますと、文字通り堀詰。しかし、堀は、南につながっておりました。遡ると、競馬場場外馬券売り場のところで右へ。松渕川という名称の小川となり、西へと遡上すると、かつての鏡川が北へ逆U字型に蛇行しちょった部分につながっちょりました。
松渕川や堀川だけではなく、高知の城下は、小川が縦横に流れる水の都でもありました。
それは、たぶん、元々の自然地形に由来するもの。
山内一豊さんが城下町を建設するに際し、自然地形をうまく利用せんかった筈がない。土木工事の専門家ですきんね、一豊さんは。
PCの画面に表示されちゅうのは、ネットで探した「高知平野の地形と沖積層」という文献。その論文で、沖積層の基底部を調べた図が、これ。つまり、海水面が今より100mも低かったという2万年前の、地表部分の地形だ。
浦戸湾からは、宝永町の方へ深い谷が切れ込み、また、潮江から天神橋の方へと切れ込んだ谷もある。その間に、舌状に突き出した尾根。これだ。
海水面が上昇し、この地形の上に土砂が堆積した。
しかし、新しくできた堆積層も、元々の地形に影響を受けざるを得ない。鏡川本流は、潮江から天神橋に切れ込んだ谷の地形に影響を受け、そして、堀川は、宝永町へと切れ込んだ谷の末裔であるのではないか。
山内一豊さんが城下町をつくる際にも、その、宝永町谷には上流から小川が流れ込んでおったのではないか。その自然の小川を利用し、城下町の水運や防御を担う堀川に仕立て上げたのではないか。
などとまあ、ヤチもないことを色々と考えてしまう春の中央公園。
まあ、それはともかく、音楽を聴いてビールを飲もう。