乾の大墓と財政再建〔4600〕2015/11/19
2015年11月19日(木)薄曇り
藩政期、土佐藩の家老職にも、随分と変動がありました。初期には5500石という高禄の家老職であった乾家も、宝永四年(1707年)、1000石に知行を減らされ、中老職に格下げ、その後も衰運が続いて500石になり、幕末まで、隆盛を取り戻すことはなかったと言います。
乾家(あの乾退助さんちとは別系統の乾家)は、名門土岐一族の系譜。乾和信の時に山内一豊に仕えるようになりました。和信さんは天正13年の大地震で亡くなってしまいますが、息子が知行を引き継ぎ、一豊の近くで活躍したのでありました。
息子の乾和三さんは、一豊土佐入国に際して4500石の知行を与えられて土佐へ入り、南国市比江一帯を支配するようになる。
山内家臣の中では飛び抜けた扱いで、その力のほどがわかります。
で、乾家は、比江の山裾に後に永源寺と称するお寺を建て、その裏手の山の上に墓所をつくりました。写真は、その墓所。
小生の大きさから、そのお墓の卵塔の大きさを類推してみてください。大きい。基壇部分を入れれば2mは超える、大きな卵塔。小生の横の、大きな卵塔が、和三さんのお墓と言います。
山内家よりも大きなお墓は、「乾の大墓」と呼ばれるほど、有名になったのでありました。今も、史跡として、人々が訪れるほどの墓所。
昔から、お墓を大きくしたら家が傾く、などと言うことがありましたよね。巨大な墓をつくったので、乾家は衰えたのだ、といった風説が唱えられるようになり、「乾の大墓」は「バカ」に引っ掛けて呼ばれている、という流言も流布したりしたとも言う。
さて。そうなのか。
中老職に落とされた6代目当主、乾時和さんの時代。山内家も、5代藩主山内豊房が亡くなって、山内豊隆が6代藩主に着任したばかり。
この豊隆さん、歴代藩主の中で随一の暗君と称されることになる藩主。評判が悪いのは、功績のある重臣たちを次々に粛清したことにも起因します。また、宝永の改革と言われる改革をしましたが効果は無く、それも評判を落としちょります。そんなに暗君だったのか。
着任早々に宝永南海地震が発生し、国内が大変な惨状になった、という不運は、どう評価すれば良いのか。そして藩の財政。
これは、全国的な傾向も読まなければならない。
17世紀、つまり、江戸幕府が開かれてから100年間の日本は、大開発の時代であったと言えましょう。各所で大規模な土木工事が行われ、灌漑が進み、夥しい新田が開発された。野中兼山さんの事業も、全国の動きと連動したものであった訳だ。この100年で、米作の農地はどんどんと広がった。
そんな時代は、藩の財政も、そんなに厳しいものではなかった。
どんどんと人口が増えた時代。
耕地面積は、17世紀の間に1.3倍に、石高は1.4倍に、そして人口は2.5倍に増えたという計算もあります。
しかし。
18世紀に入り、もう、新田を開発するような土地が無くなってきてしまった。「開発の臨界」と言われる時代を迎えたのであります。全国的に。
石高制にもとづくお米の年貢を基盤にして組み立てられていた、幕府や藩の財政は、ここで一気に厳しくなる。これはもう、全国的な傾向であったのでありますね。そこで構造改革が必要となった。そんな時期。
豊隆さんの時代は、急激に財政が悪化し、それに震災が加わって、非常に難しい舵取りが要求された時代でありました。
そんな中、高禄の家老たちの知行や役職を、何かと理由をつけては落としていった訳で、そんな社会事情があったのか、とも考えられるのでありますね。
構造改革として、今まで遊水地帯であった場所を、堤防の構造を変えることで農地にしたり、土地土地に合った換金作物生産を奨励したり、といったことが全国で行われるようになったのは、享保の頃から。吉宗さんの享保の改革は、そんな社会の要請によるものでありました。
豊隆さんの時代は、まだ、なかなか構造改革も難しかったかも知れません。享保5年(1720年)に豊隆さんは亡くなりますが、享保の改革は、まだ始まったばかりの時代でした。
土佐で、本格的な改革が行われるようになるのは、18世紀の後半。9代藩主山内豊雍(とよちか)の時代まで待たなければなりませんでした。
乾家の衰運は、お墓が大きいせいではなく、新田開発限界による財政悪化という全国的な社会状況が原因である、と言えるかも知れない。