明治16年の板垣邸〔4563〕2015/10/13
2015年10月13日(火)快晴!
朝晩、めっきりと涼しゅうなりました。朝起きて空を見上げると満天の星。もう、すごいくらの満天の星。空気が澄みわたる季節。
ここは今朝、4時過ぎの大橋通り。と、申しますか、大橋通り商店街の南。天神大橋と大橋通り商店街の間。大橋通り商店街は、天神橋(大橋)の通りにある商店街なので大橋通り商店街という訳だから、その方式に従えばここも大橋通りで、大橋通り商店街になるのかな。いや、なんか、違う名前の商店街になっちょりました。それはともかく。
この道。
小生が6年間、高知市立追手前小学校へ通うた道。考えてみれば、人生の中で一番歩いた道なのかも知れない。中高になり、秦泉寺に引っ越してからは自転車が中心になったし。
ここを毎日毎日往復歩いて通うた日々。
あの頃、この右手に駄菓子屋さんがありました。あの、典型的な駄菓子屋さん。ガラスの蓋をした箱に様々なお菓子、飴玉が入っており、それを紙袋にスコップで入れて量り売りするお店。界隈には色んな駄菓子屋さんがありましたが、ここのお店が一番ちゃんとしちょった、つまり、ちくとコウベっちょった記憶があります。
お店の名前は知りません。皆、「高野寺」と呼んでおりました。松渕川公園で遊びよって、駄菓子を買いに行きとうなると「高野寺へ行こうぜや」となる訳だ。
「高野寺」と呼んだ理由は、その駄菓子屋さんの裏手が高野寺境内やったき。お寺さんとは関係のないお店やと思いますが、我々にとって「高野寺」は、お寺さんではなくて、ここの駄菓子屋さんであった、そんな時代。たぶん、誰も、そのお店の正式名称は知らんかったと思います。我々子供たちは。
高野寺。
高野寺さんのホームページによりますれば、ここに、高野山出張所が開かれたのは明治16年のこと。きっかけとなったのは、明治初年の高野山金剛峯寺塔頭、上蔵院の大火、焼失。その焼失した堂宇の再建を期して、上蔵院主、原信頂和尚が諸国を巡錫された際、土佐の惨状を目にしたのでありました。明治初期の廃仏毀釈運動によって、仏閣が破壊され、廃されていた、惨状。
そこで、土佐での寺院建立を発願した、というのがはじまり。そして、明治16年、板垣退助伯邸を譲り受けて、開創したのが高野山出張所。
ん?
今、気付いたのですが、明治16年と言うと、板垣退助さん、外遊からモンて来た年ではないか。浦戸湾の丸山台で、帰朝記念大宴会をやった年。
明治16年8月29日、板垣退助さんは浦戸丸に乗船して帰高、自由党員30余名が船上で歓迎、万歳を叫び、祝砲を上げる。そのまま丸山台の此君亭に寄って、大宴会。丸山台には、それを記念した「帰朝記念碑」が残ちゅうのはご承知の通り。
それが明治16年。
高野寺さんが板垣邸を譲り受けて開かれたのも、明治16年。板垣さんちは、その後、新田の南、現在の東洋電化工業さんの辺りにあり、今も邸跡の碑が残ります。
どのタイミングで、そこに引っ越したんでしょうかね。もちろん、東京や大阪などに行ったり来たりするには、新しい家が便利。浦戸湾沿いの家からは、簡単に船への行き来ができたでしょうき。
明治5年、征韓論に敗れて下野した後は、土佐と中央を行ったり来たりやったでしょうか。九反田に立志社をつくったのが明治7年。その後、今の中央公園の所が立志社になり、明治16年頃の九反田は、海南学校分館。
そんな時期。この写真の場所よりも、浦戸湾沿いの新居の方が具合が良い、ということで、そちらに引っ越した。正確には、いつなんでしょうか。
たぶん、間違いないのは、明治16年に外遊から帰ってきて帰高した際、この旧邸跡に高野寺が創建されるのを見届けた、ということ。正式な売買手続きなんかも、その時にしたのかも知れない。
色々と明治16年の妄想が広がる、夜明け前。