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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

磯村傳内さんと萩ノ源五郎さんと萩野休左衛門さん〔4555〕2015/10/05

磯村傳内さんと萩ノ源五郎さんと萩野休左衛門さん

2015年10月5日(月)薄曇り

涼しい朝。
ここは早朝、4時過ぎの与力町。工事現場を撮影してみました。地面の高さからかなり掘り下げられ、基礎工事が行われている風景。隣の100円パーキングの灯りに照らされ、夜でも明るい工事現場。

この、基礎工事で露出しちゅう土。この地層には、専門家がキチンと調査すれば、藩政期の遺物や遺構が含まれちゅう可能性が高い。民間の工事では、よほどのことがない限り埋蔵文化財調査は行われんので、もし遺物があったとしても、このまま新しくできる建物の下に埋もれてしまいます。それも仕方のないこと。

小生、発掘素人なので、これを眺めただけでは、粘土質の地層であること以外、何もわからないのが残念。発掘の勉強、してみたいですよね。

藩政期の城下絵図を見てみましょう。
藩政期初期、寛文九年(1669年)頃の郭中図では、この場所界隈には磯村傳内さんという武士が住んでおります。隣の久米武兵衛さんかも知れません。
町名は「南与力町」で、藩政期当初、家老乾市正付きの与力が多数住んでおったことから付けられた町名、と、平凡社刊の「高知県の地名」に書いちゃあります。寛永ー万治(1624年〜1661年)頃の侍町小割帳に「山内市正与力町」と見えるそうです。
ところが、松岡司先生の力作「土佐藩 家老物語」によりますれば、土佐藩家老乾家5代当主、乾市正(いちのかみ)和好さんは、宝永四年(1707年)5月18日に30歳で亡くなっている。少し計算が合わんのは、謎。

それはともかく、乾家は、藩政期土佐藩において、山内家との婚姻関係も複雑に絡ませ、非常に大きい力と権勢を誇った一族。しかし、市正没後、6代藩主となった豊隆の粛清政策の中で家格を貶められ、まずは、家老から中老職に落とされ、4500石から1000石に石高を減らされました。その後も衰運とどまらず、維新まで、権勢を取り戻すことはなかった、乾家。乾退助さんの家とは違う乾家ですきんね。

中老職に落とされた際、与力は召し放された、とある。
つまり、この工事現場に住んでいた、磯村さんや久米さんは、家老乾家の与力であった可能性が高い。そして、宝永四年に、召し放された。その後、どうなったかはわからない。
享和元年(1801年)の郭中図では、この場所には「萩ノ源五郎」さんという人物が居住。幕末、慶応三年(1867年)頃の郭中図では、萩野休左衛門さん。

こないだ、武士の家は藩政期を通じて変化が多く、安定しちょらんかった、という話を書きました。その理由のひとつが、ここに垣間見えますな。
この界隈に居住していた、名門乾家の与力集団は、乾家の没落とともに乾家と運命を共にしたのかも知れない。与力から召し放たれた人々は、郭中に住むことはできなくなり、各所に散っていったのか。

そんな歴史が、ここに埋もれちゅうとすれば、なかなか興味深い。様々な人間模様が入り乱れ、渦巻いておった藩政期。武士もなかなか大変であった、そんな時代の遺構が、ここに眠っておるのかも知れません。

このしゅっと東には南北に川が掘られ、北は堀詰で堀川につながり、南は鏡川へ。その川の東側には、貞享四年(1687年)に焼けてしまうまで、要法寺さん桂昌寺さんがありました。焼けた後は、要法寺さんが筆山北麓の現在地に遷り、桂昌寺さんが筆山東麓に遷って妙国寺さんになったのはご承知の通り。
この東には、戦国期、国沢氏の居城である国沢城があり、その跡地に桂昌寺が建てられた、と言います。鏡川によって形成された高砂のような場所であったと言う。

堀川は、その高砂を中洲にした、鏡川の流路の一部であったのではないか。元々の、そんな自然地形を利用して、堀を巡らした高知の城下がつくられていったのではないか。
そんな話は、また、今度。
さあ。月曜日。仕事だ仕事だ。


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