三津の渡し、湊三嶋神社、熟田津〔4511〕2015/08/22
2015年8月22日(土)晴れぞなもし
そんな訳で今朝は松山。愛媛県の松山。昨日の夕刻、車でやって来ました。
で、道後温泉のビジネスホテルに泊まっちょりまして、今朝は、ここ、三津浜港まで走ってきました。10kmちょっと。結構、近い。
道後温泉の本館。あの前のアーケードに入り、ただひたすらまっすぐまっすぐ進むと、三津浜へ出る、というのをご存知でしょうか。道後温泉と三津浜。一本道でつながって、約10km。
今朝はその道を走ってきました。
実は、今年の4月18日にも、同じルートを走って三津浜へ来ちょります。で、「三津の渡し」というのを発見して、その渡し船に乗っちょりますね。
今朝の目的も、その渡し船。
その時にも書きましたが、現在の松山市道高浜3号線でもある渡し船。市道なので、ただ。無料。
細長く切れ込んだ湾の入り口近く。陸路、向こう側へ行こうとするとかなり遠い。船だと、数十秒。
写真をご覧ください。ズームで撮影しちょりますので、右奥に、松山城の山が見えております。お城、見えますよね。あの左手の向こうが、道後。そっから走ってきて、海に突き当たり、少し北上したところが三津浜のフェリーターミナルと、漁港。
漁港の町は、風情あります、実に。
で、その町の北側に、このように細長い湾が東へ入りこんでおるのだ。
眼前の海、対岸に、少し突き出して見えるオブジェがありますよね。あれが、渡船。小屋のように見える部分が運転席。船の舳先を、岸壁から下りてくる石の階段にくっつけちゅう訳です。
今朝は、その石の階段を下りてあの船に乗り、こちら側に渡ってきました。数十秒で。
こちら側は港山。みなとやま。
その港山に、湊三嶋神社さんが鎮座ましましちょります。その拝殿前から撮影したのがこの写真。美しい港。そして渡船。
渡船の、こちら側の渡し場で降りて、この湊三嶋神社さんの方へ歩いて来よりましたら、家の壁面に「熟田津跡地 郷土史研究会他」と書かれた古い小さな布切れが貼り付けられちょりました。見過ごしてしまいそうな、小さな布切れ。
そうか。ここが熟田津という説があるのか。
熟田津。にきたつ。
万葉集の、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に出てくるではないか。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(熟田津に船出しようと月を待っていると潮の流れもちょうど良くなった。さあ今こそ漕ぎ出でよう。)
大化の改新の後、斉明天皇の頃。朝鮮半島の百済救済の為に新羅を討つべく、斉明天皇が難波宮を出発、伊予の熟田津の石湯行宮に滞在したと言われるのが斉明7年。661年。
当時、政権を握っておったのは斉明天皇の息子の中大兄皇子。で、その弟の大海人皇子、後の天武天皇に嫁いでおったと言われるのが、万葉集を代表する歌人、額田王。
で、伊予の温泉につかり、そして熟田津から船出して九州へ向かった、とされるのであります。その際に額田王が歌ったのが、上の歌。で、その伊予の温泉が道後温泉で、熟田津は、道後温泉の近くの港、という説があるんでありますね。
その熟田津候補のひとつが、ここである、という訳だ。
なるほど。道後温泉から約10km。それを近いと感じたのかどうなのか。少なくとも、今朝はアッという間に走って来れました。
まあ、これには、温泉は今治の湯ノ浦温泉で、熟田津は今治市の朝倉湾である、などの説もあって定かではありません。
どっちにしましても、ここが古い古い港として栄えた土地であるのは間違いない。
斉明天皇は、九州に渡った後、その年のうちに崩御。百済救援に渡った軍勢も、白村江の戦いで敗走。天智天皇は評判が良くなく、その後、壬申の乱の末に天武天皇が即位したのはご承知の通り。
額田王は、その天武天皇に嫁いだとも言われる万葉歌人。
小生は、三津の渡しを船で渡り、時間があったので梅津寺まで走ってから、伊予鉄に乗ってホテルへ戻りました。意外にも結構混んでおったので、近くの人は、汗臭かったかも知れません。ごめんなさい。ごめんなさい。