潮江橋北詰から梅ノ辻、梅ヶ辻、梅の辻〔4492〕2015/08/03
2015年8月3日(月)晴れ!
暑いっすね。しかし昨夜は、その前の晩ほどの寝苦しさはありませんでした。気温、湿度がちょっとだけ低かったにかありません。一度、あの熱帯夜を経験すると、ちょっと暑いくらいは快適に感じてしまうので、人間は不思議不思議。
さて。写真は、今朝、4時頃に撮影したもの。潮江橋南詰から桟橋方面。まだ4時というのに、ランをしゆう人がおりました。まあ、夜明け前のこの時間帯が一番走りやすいっちゃあ走りやすい。早起きが苦手でなければ、この時間に走ることをお勧めします。
昨日のにっこりでは、桟橋通りを南側から撮影しましたので、今朝は北側から。眼前の電停が梅ノ辻電停。梅ノ辻と呼んだり梅ヶ辻と呼んだりと、読み方的安定性に欠けちゅう地名ですが、読み方的安定性は関係ありません。どっちでも通用します。
この梅ノ辻は、もちろん、そこが五叉路になっちゅうので、五枚花びらの梅の花から取ってきて梅ノ辻になった訳だ。では、いつの頃から梅ノ辻なのか。
昨日も書いたように、この潮江地区は古代は海。で、山沿いに人々が住むようになり、荘園が開かれ、近世に灌漑も進んで、明治期には広い田んぼが広がるエリアになっちょりました。
梅ノ辻から右へ行ったところが塩屋崎で、藩政期初期まで、塩を焼いておった場所。ここが一面海であった時代には、浦戸湾に突き出した岬、塩屋崎。
中世の頃、その塩屋崎と、五台山の吸江との間に渡し舟があったと言います。それより前の平安時代、潮江山の麓に住んだ菅原高視さんも、塩屋崎から船に乗って、国府との間を行き来しておったのでしょうか。
話が逸れました。梅ノ辻。
で、明治初期には、ここが土居町。桟橋通りもなく、従って五叉路もない。なので梅ノ辻もありませんでした。明治32年発行の「土佐國高知市街圖」を見ても、梅ノ辻はない。
この向こうに、高知港の桟橋が作られたのが、明治37年。で、同じ年の5月、桟橋と梅ノ辻を結ぶ土電の電車が開通しちょります。土電潮江線1.8km。
その潮江線の始発と終点が、桟橋と梅ノ辻。その時の「桟橋」停留所は、今の桟橋車庫の辺りで、翌年に南進して現在の桟橋通五丁目のところまで延びました。
で、梅ノ辻。
たぶん、この時に桟橋通りの直線道路が整備された訳だ。で、そこに五叉路が出現し、そこに電車の停留所ができることになって、誰かがその停留所の名前を「梅ノ辻」にしたのではないか。つまり電停名が先にあって、それが地名になったのではないか。そんなことを妄想する、夏の朝。
因みに、潮江橋を電車が渡って、堀詰とつながって「桟橋線」と名称を変えるのは、明治39年のこと。
大正期の「高知市街図」とかを見てみると、地図には「梅ヶ辻」。
昭和12年発行の「町名改正高知市最新地圖」では「梅ノ辻」。
戦後の市街地図を見ると「梅辻」になっちゅうのが多い。これはもう、梅ノ辻と読もうが梅ヶ辻と読もうが、勝手にしてくれい!という雰囲気まんまん。読みたいように読めば良い、ということで「梅辻」なんでしょかね。これを「うめつじ」と読む高知市民はおりませんきに。
そして現在。
国土地理院の地理院地図を見てみると「梅ノ辻」。なるほど。
ところがGoogleマップでは「梅の辻」。
梅ノ辻問題。読み方的安定性も、表記的安定性も、関係ないのでありました。ああ。暑い。