井戸、近世の風景〔4473〕2015/07/15
2015年7月15日(水)快晴!
いや〜、良いお天気。明日には台風がやって来るなどとは思えない、素晴らしい夏空が広がっております。おだやかな青空。そして夏の日差しがギラギラ。昨日までとは一転して空気もそこそこ乾燥し、久々に心地良い朝を迎えました。ああ。嵐の前の夏の日よ。
ここはいつもの野市、上岡。昨日も書いたように、昭和17年までは物部川対岸の物部村に属していた、古い集落。
物部川左岸、野市を形成する洪積台地の南端に位置します。集落の南側は段丘崖になり、洪積台地の地層を見ることができます。
洪積台地の上は砂礫層で、水はけが良すぎて農地には適さない地質。そこに灌漑用水を通し、農地として開拓したのは、ご存知野中兼山さん。上岡は、どんな成り立ちでできたんでしょうかね。今は豊で、大きなお屋敷も多い、上岡。物部川西岸の田村地区と関係が深かった上岡。
その集落の中には、井戸や屋敷墓がたくさん。近世の集落の有り様が、かなり色濃く残っておる風情。写真はそんな井戸の一つ。今は蓋が被せられ、ポンプが取り付けられちゅうようです。この様子から、今も、電動ではあっても現役で活躍しゆう井戸にかありません。
洪積台地なので、砂礫層。その砂礫層の下の粘土層との間を流れる水を、汲み上げているのでありましょうか。
近世の集落は、どんな感じであったのか。
それこそ、この対岸の田村地区は、空港拡張工事などで広大な発掘調査が行われちょりまして、かなり詳しいことがわかっちゅうのはご承知の通り。
田村遺跡は、古くは縄文時代の遺跡があり、弥生期の長い長い年月を通じての夥しい遺跡群が有名。そして古代、つまり奈良時代や平安時代にも、結構大きな、オオヤケの建物のような建物群遺構がありまして、それから中世。中世には、守護代細川氏の大きな居館を中心とした環濠集落が形成されちょりました。岡豊の歴史民族資料館で、その環濠集落のジオラマが観れますよね。
そして近世、つまり江戸時代には農村集落として発展した、田村。
ホントに長い長い期間、人々が住み続けてきたエリア。しかし、弥生期の遺跡からは、お墓がみつかってない、と聞きました。日本の土壌は酸性土で、骨などが溶けてしまって残りにくい、ということもあります。どのような葬送形態やったんでしょうかね。
中世になると、副葬品などが収められた中世墓が出現し、そして近世。
江戸時代の田村界隈のお墓は、時代劇でよく見るような桶型ではなくて、今と同じような長方形の木棺であったようです。で、屋敷地の北部や西部に屋敷墓としてつくられる場合と、水田の一画や畦などに集中してつくられる場合があった、と発掘調査報告書に載っちょります。
この上岡は、そんな近世の光景がクッキリと想像できる集落なんですね。ちなみに、近世の田村遺跡でも、棺は頭を北に、つまり北枕が一般的であるそうです。
田村の発掘調査で、お墓がたくさん作られるようになったのは、江戸時代中期以降、ということが判ってきました。中世は、有力者の大きな墓はあるものの、数は少ない。弥生時代には、墓所がなかなか見当たらない。
つい2000年前のことやのに、実際の宗教観や葬送形態は、謎が多いんでありますね。
朝の上岡。近世の村の在りようが、よくわかる集落。この場所には、江戸時代にも井戸があったでしょう。朝、こんな時間には、近在の人々がこの井戸の周りに集まり、水を汲み上げながらおしゃべりをしていたかも知れませんね。この写真を眺めておりますと、そんな風景が見えてきます。