飛び地考〔4472〕2015/07/14
2015年7月14日(火)へんなお天気
台風の動きが不穏。こっちへ来よります。その影響でしょう、こじゃんと降ったり曇ったり照ったり、と、ヘンテコリンなお天気が続いております。そしてすごい湿度。
朝の高知には水蒸気が充満して、すべての風景がスリガラスの向こうみたいに見えます。ああ。蒸せる蒸せる蒸せる蒸せる。
先ほどから青空が広がり、小生の机に座ると背中からギラギラギラギラ。暑い。窓の外からはセミの声。クマゼミのワシャワシャが聞こえ始めた、そんな季節。
はやいこと台風に行きすぎて頂いて、夏本番を迎えたい、と強く願う今日この頃。
ここは物部川の河口。水量の増えた物部川が、怒涛の太平洋に流れ込む様は、すごい風景となっております。それでもまだ静かな、嵐の前の静けさの、河口のたたずまい。
この写真を撮影するのに立っちゅう場所は、河口西岸。しかしここは香南市。西岸なのに南国市ではありません。
川の向こう、東岸の風景はもちろん香南市。旧吉川村。明治22年に、東側の古川村と合併して吉川村になる前は、吉原村でした。物部川と香宗川河口に挟まれた湿地帯で、葦の原っぱが広がっておったので吉原になり、元禄年間に藩の支持で芳原になって、また、吉原村となりました。
で、この西岸にも、吉原村の飛び地があった、という話は以前にもご紹介しちょります。
長宗我部地検帳にも、吉原庄の飛び地がキチンと記載。西岸飛び地の田畑屋敷は合計七町四反余で、七人の居屋敷がある。キチンと苗字のある人名も記載され、庄屋さんも居るので、ちゃんとした村。
現在も、南国市久枝の隣に飛び地として香南市が存在しますが、家屋敷はありません。昔の飛び地は、今よりも広かったのかも知れません。
さて。
ここから北へ行くと物部庄。弊社がある界隈。その物部庄も、東岸の上岡を飛び地として持っておりました。現在の香南市上岡は、近世になっても物部村の枝村で、昭和17年に日章村ができる際に、野市に併合された上岡村。
そこから北へ行き、旧国道の北へ行くと、その西岸には現在も香南市の飛び地。対岸は野市の深淵。
かつて、深渕村は、物部川東岸の広大な土地と、西岸の立田を村域にしちょりました。その名残で、今も西岸に香南市の飛び地が残るのでりましょうか。
こういった飛び地。何故、川を挟んで飛び地が存在するのか。
今まで、物部川の流路が変遷してきたので、その為ではないか、と、このにっこりにも書いてきたのであるが、果たしてそうなのか。
何となく、違和感を感じておりました。流路との関係が、今ひとつわからない。謎だ。
ここで妄想。
上に書いた3箇所の飛び地。そこに共通するものは。
渡しだ。渡し船。
深渕には、土佐東街道の渡しがありました。上岡には、戦後しばらくまで渡し船が運行しておりました。河口にも、街道の渡し。
ひょっとしたら、「渡し」がある場所は、一元管理をする必要があって、両岸とも同じ村であることが多かったのか。なので渡しの向こう側にも飛び地がつくられたのか。
渡しがあれば、確かに、行き来は簡単で、川の向こうとこちらが同じ村であっても然程問題はない。なるほど。良い妄想だ。
あまりの蒸し暑さに頭が煮えて、朝っぱらからヤチもないことを考えてしまう。ああ。あづい。