一條神社、神様なのかも知れない〔4467〕2015/07/09
2015年7月9日(木)薄曇り、暑い!
台風が3つも来よります。その影響でしょうか、蒸せるお天気になりました。いや〜、暑い。
ここは中村。現在の四万十市中村。昨日の夕方やって来ました。街中で飲みよりましたら、知った顔のお兄さんに声をかけられました。伊野商業高校で軽音楽部のお世話をされており、高知県下の高校生たちのバンド活動を応援されておられるY先生ではないか。熱い熱いY先生。昨夜も熱く、中村で飲んでおりました。
さて。
今朝は久々、たぶん2年振りくらいに、佐田の沈下橋まで走ってきました。往復13kmちょっと。霧のような雨が身体にまとわりつき、気温も高めで、ウェアはグショグショになってしまいました。が、汗をかくと心地良い。四万十川の土手、そして山裾の鬱蒼とした道を、実に快適に走って参りました。このところの雨の影響でしょう。増水した四万十川は、覗き込んでおりますと引き込まれそう。しかし濁りはなく、美しい、豊かな水量の四万十川を堪能してきました。
で、今日は岡山へ行かんといかんので、ランの後、風呂に入っちょいて、速攻で会社へモンて来ました。今、本社の自分の部屋で急いでこの文章を書きゆうところ。所謂高速流し書き、というやつですな。結構、速いっすよ、キーボードを打ちゆう姿。ほとんど文章も考えず、指の赴くまま。なので、乱文はご容赦くださいませ。
この写真。今朝、ホテルを出て、中村のアーケードを抜け、一條神社さんにお参りに寄っちょりました。応仁の乱を逃れて土佐へ下向してきた公家、一條氏は、戦国期、長宗我部氏にやられるまで、その身分の高さもあって、土佐ではかなりの力を持っておりました。
中村が土佐の小京都と呼ばれるのは、一條氏が城下町をつくり、支配したから。
土佐一條氏滅亡後、その御所は荒れ果てておりました。藩政期に入り、その場所に祠が建てられ、一條氏歴代の霊を祀るようになったとか。で、文久二年(1862年)という幕末になってから、幡多郡総鎮守として、改めて一條神社が建立され、立派な社殿ができて、今に至っちゅうという訳だ。
今日は、一條神社さん、そして摂社の天神様にお参りし、お札とかを販売する場所の前を通って帰りました。通り過ぎながら、ん?
いや、置物に見えました。うっかりすると気付きません。
しかし。
よく見ると猫ではないか。写真の「願掛神木 ¥200」と書かれた箱の上。ああ。なんという気持ち良さげな姿。猫にとって、丁度、ボッチリのスペースであるのでありましょう。
猫は、元々の、穴で暮らしたりして身を守ってきた習性からでしょうか、狭いところ、好きですよね〜。無理やり、センマイ場所に入り込んで幸せそうな顔をする。
野生の習性が、現在のような生活をするようになっても残っちゅうのしょう。
それにしても。この表情。ああ。羨ましい。
いや。この姿。これは、神様なのかも知れない。きっとそうだ。そうでなければ、ここまでぴったりハマる訳がない。
写真を撮ったり前を通ったりしても、薄目を開けてちょっと見るだけで、また、目をつぶってこの姿に戻る。思わず拝んでしまいたくなる、神様のような猫でした。きゃ、神様なのかも知れない。