川田稔先生、川田明治少将、昭和陸軍〔4466〕2015/07/08
2015年7月8日(水)照ったり降ったり曇ったり
夜明け前、突然ザーっと降ったりしよりましたが、その後は上がって曇り。と、思いよったら、今、背中をお日様が攻撃してきはじめました。暑いぞ、これは。そんなお天気の高知県。
川田稔さんという学者さんがおります。政治思想史、特に、昭和陸軍史を専門とする先生。現在名古屋大学名誉教授。満州事変から太平洋戦争に至る歴史を、夥しい文献を渉猟しながら研究、検証し、たくさんの本を書かれちょります。小生も、その著書は、かなり読んできました。
その川田先生が、この4月26日に開催された土佐史談会総会の記念講演会の講師をつとめられました。高知県出身なんですね。
たくさんの著書があるのですが、昨年から今年にかけて、その仕事の集大成のような「昭和陸軍全史」全3巻を、講談社現代新書から出版されちょります。なぜ、どのような状況下で、日本はあの無謀な戦争に突入していったのかがよくわかる本。
政府が、権力が、マスコミが、大衆が、どのように変化し、どのように行動し、どのように暴走を始め、破局へと向かっていくのか。これを勉強しておくことは、これからの日本のことを考えるにおいて、とてもとても重要なこと。歴史は、キチンと学びましょう。
ネット情報だけで歴史を学ぶと、自分が見たいと思う偏った情報のみを取捨選択し、それが真実と「本気」で信じてしまう誤謬を犯しかねない。一番危険な歴史の学び方になってしまう。歴史はキチンと学びましょう。と、思えば、この本、佳い本。
川田先生の論旨。
満州で、張作霖爆殺事件、いわゆる「満州某重大事件」が起こり、政党内閣である濱口雄幸内閣が、軍部の暴走を食い止めようとする政局から、濱口首相襲撃、死亡、若槻礼次郎内閣の成立、そして満州事変という流れで、陸軍中堅幕僚の永田鉄山を中心としたグループが、国際世論を無視した形で満州を日本の権力下に置こうとする。
なんとか、政党政治の力で、濱口から続いてきた国際協調路線を維持しようと懸命の努力をする若槻礼次郎ですが、内務大臣の安達謙蔵の訳のわからない造反によって内閣総辞職に追い込まれる。そして軍部に近い犬養政友党内閣ができ、永田鉄山一派が思う通りの陸軍省、参謀本部の人事体制ができあがり、満州国成立、国際連盟離脱、といった暴走が始まり、五一五事件で政党政治が終焉。この、若槻内閣総辞職以降を、川田先生は「昭和陸軍」と呼び、それまでの軍隊と区別しておるんでありますね。
この辺、日本があの戦争に向かってしまう、非常に重要な部分。これ以降、マスコミも、そしてマスコミに煽られた世論も、暴走を許し、自分も暴走を始めてしまう。
永田がつくった「一夕会」という中堅若手幕僚のグループが、昭和陸軍の中心となっていくのであるが、彼らの「謀略」史は、キチンと覚えておかんといけません。
昭和3年の張作霖爆殺事件を起こした河本大作も、一夕会メンバー。自分たちでやっておきながら、中国、国民党の仕業として正当化し、世論を煽る。陸軍の謀略であったことは、太平洋戦争が終わるまで公表されなかった。
そして昭和6年の満州事変。
関東軍参謀、石原莞爾(もちろん一夕会)が中心となって、永田らの意向を汲んで起こした柳条湖の鉄道爆破事件がその発端であるが、これも、中国側が攻撃を仕掛けてきた、と偽装しての謀略。張学良は、無抵抗を指示しておったので、日本軍は戦線の拡大のしようがない。そこで、各所で工作機関が不穏な情勢をワザとつくり、自作自演で中国が日本を攻撃しているように見せかけながら、居留民保護を名目にどんどんと戦線を拡大し、ついには満州全体を支配してしまった満州事変。
この謀略の事実も、戦後まで、日本国民には隠されておった。
謀略と知っておれば、石原莞爾も英雄にまつり上げられたりはせんかったでしょうけんどね。
こんな歴史の事実を知ることは、大切。川田先生は、学者として、その事実や政治の流れを客観的に研究しておられます。
満州事変の折の関東軍司令官は本庄繁で、参謀長は三宅光治少将。高級参謀が板垣征四郎、参謀に石原莞爾。
その手前、張作霖爆殺事件の最の関東軍司令官は村岡長太郎で、参謀長は斉藤恒少将。高級参謀に河本大作。
陸軍が昭和陸軍になり始めたのは、その事件の時代。
その斉藤恒参謀長の前任の関東軍参謀長が、川田明治少将。
ここは、今朝の野市、上岡八幡宮さん。その玉垣に、その川田明治さんの名前が刻まれちゅうことは、以前にもご紹介しました。明治8年、三島村に生まれた川田明治さんが、高知県尋常中学校を卒業して陸軍士官学校へ入学するのが明治29年。
上京する際、尋常中学校の同級生で一番優秀な、熊本の第五高等学校へ入学する寺田くんたちと一緒に神戸まで行きました。その寺田くんが、寺田寅彦さん。
寺田寅彦さんの日記に、その時の状況が書かれちゅうのは、以前にもご紹介しちょります。
ギリギリのタイミングで、この昭和陸軍への歩みの当事者にならずに済んだ、川田明治さん。関東軍参謀長の後は下関要塞司令官になり、昭和5年に予備役。満州事変の時には、もう、予備役で現役を退いておりました。昭和陸軍になる直前に引退できたのは、幸せであったのかも知れない。
そんな川田明治さんの玉垣は、いつものように、上岡の八幡様に立っています。