70年目の嘆きの森〔4463〕2015/07/05
2015年7月5日(日)小雨
今日は高知。昨日、沖ノ島の母島をお昼過ぎに出る釣り客用の渡船に乗らせてもらい、夕刻には高知までモンて来ました。こうやって行き来してみると、沖ノ島、そんなに遠いことはない。遠いことはないが、味わえる雰囲気は非日常空間。これは、良いところを見つけました。
さて。
今日は午後から色々と用事。なので、午前中、南嶺をたつくって来ました。雨が降る中の素敵なラン。ああ。心地良かったです。この季節、雨の中のRUNがこんなに心地良いのに、皆さんご存知ないのが可哀想。今日の南嶺、誰にも会いませんでした。雨の南嶺独り占め。
今日は筆山の車道から駆け上がりました。で、一気に高見山頂まで。山頂からの風景は雨に煙り、ガスがかかってモノトーンの趣き。
で、土佐塾高校を通り、鷲尾山頂を一気に駆け抜けて吉野へ下ってきた雨の山ラン。雨のお蔭でそんなに暑くなく、湧き水も豊富。マイナスイオンの森は、心身を癒してくれるのであります。
さて。
今日は7月5日。昨日が7月4日。昨日は沖ノ島やったので、ご紹介できませんでしたが、昨日、2015年7月4日は、高知大空襲から70年目に当たります。昭和20年7月4日。沖縄での激しく悲しい戦いが終結し、いよいよ本土決戦が現実味を帯びてきておった、そんな時期。サイパンの飛行場からやってきた夥しい数のB-29が、高知の街を焼き尽くした高知大空襲。70年前の昨日のこと。
空襲で焼け野が原になった高知の街。鏡川の河畔には、身元のわからない遺体が並べられたと言います。もちろんDNA鑑定などはないし、その遺体が誰であるかなどを特定する作業にも限界があった戦時中。一家が全滅した場合などは、引き取り手も居ない。
梅雨時分とて、そんな遺体を長いこと放置しておく訳にもいかん。ということで、それらの遺体は荼毘に付され、北中山の埋葬された、と言います。
北中山は、高見山の南側、鷲尾山との間の山。その山の斜面の一角が、その埋葬場所にされました。100体ばかりの身元不明の遺体が、山中の斜面にひっそりと埋葬されたとか。
戦後数十年が経過し、市民団体が、その埋葬場所と思われる界隈に「嘆きの森」という看板を立てて追悼集会を行いました。新聞記事にもなったようですね。
ところが、そこは、私有地になっちょって、看板は撤去されたそうです。
終戦後の食料不足の時代。高知市は、民間に市有地を払い下げて食料の増産を図った、とのこと。その際、その場所も、民間に払い下げられ、芋畑になっておりました。払い下げを受けた所有者にしてみれば、かなりビックリの話であったでしょう。芋畑は、その後廃止されて森になっていたものの、私有地であることには変わりはない。
昭和22年に米軍が撮影した航空写真が、地理院地図のアーカイブがら閲覧できます。その写真を見てみると、確かに、その界隈は一面、畑。段々畑の段々がよく見えます。
今日は、その場所も駆け抜けました。
その後、どんな事情があったのかわかりませんが、「嘆きの森」の看板は復活し、今も、この写真のように、森の中で静かに立っております。
毎日、たくさんのハイカーがここを通り抜けていきますが、「嘆きの森」の看板の意味をご存知の方は少ないかも知れません。
70年後の嘆きの森は、雨に濡れて静かな森でした。