鎮魂碑と実盛様〔4451〕2015/06/23
2015年6月23日(火)薄曇り
今日は、沖縄戦から70年の慰霊の日。忘れてはならない、日本の負の歴史。本当に忘れてはならない。
沖縄と言えば、高知海軍航空隊白菊部隊のことも忘れてはなりません。当初は訓練部隊であった部隊が、戦況の悪化に伴い、昭和20年3月に「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」として再編され、訓練用の、スピードも遅く運動性能も劣る練習機「白菊」で、高知から鹿屋へ、そして鹿屋基地から沖縄への特攻に参加した、という事実。昭和20年5月から6月にかけて、52名の若き隊員が沖縄の海に散華しております。彼らの奮闘空しく、沖縄では地上戦が行われ、占領されてしまう。高知県人が覚えておかんといかん、過去。
ここ、高知空港の南東端に、昭和62年、高知海軍航空隊有志一同によって、鎮魂碑が建立されました。もう、その航空隊有志一同も、高齢化が進み、少なくなってきたと思われます。が、我々が伝えていかんといかん、歴史。
鎮魂碑の右手に、木々に囲まれた小さなお宮さんが見えます。実盛様。ここに海軍航空隊の飛行場ができる以前には、もっと北側にあったのでしょうか。実盛様。
実盛様と言えば虫送り。実盛様をお祀りすることで、稲に虫がつかんようになり、豊作となる、という話は、全国にあります。高知でも、実盛様をお祀りしちゅう祠は各所にあり、虫送り行事をやりゆうところも残っちゅうと言います。
「実盛」は、もちろん斉藤別当実盛さん。武蔵国、長井庄を本拠として、平安末期に活躍した武将。最初は源義朝につくも、義朝と対立しておった義朝の弟、源義賢につくようになる。義賢は、義朝の息子、悪源太義平に討たれてしまい、再び義朝麾下に。その際、義賢の息子の駒王丸を助け、駒王丸の乳母の亭主、信濃の中原家へ預けたのであります。
その後、義朝が平治の乱で討たれると、今度は平氏について活躍。
そんな中、以前助けた駒王丸は、成長して木曽義仲となり、破竹の勢いで進撃を始める。頼朝が挙兵しても、平家方に留まり続けた実盛さん、木曽義仲を討つために北陸へと進軍するも、加賀、篠原の戦いで敗れ、討たれてしまった。
そんな斉藤別当実盛さん。最期は若々しく戦いたい、ということで、白髪を黒く染めて戦いに臨んだため、討ち取られて首あらためをしても、実盛とはわからんかったそうで、池で首を洗うと髪が真っ白くなり、木曽義仲も恩人の死を悲しんだ、という話。
実盛さん、最期は、稲の切り株に馬がつまずいて転倒し、討ち取られた、ということで、稲を食い荒らす虫となって祟るようになった、と言われます。
そこで、実盛さんをお祀りして、稲が虫に食い荒らされんように祈る風習が全国に広まった、ということにかありません。
そしてここに、実盛さんの無念を伝える実盛神社さん。
いつも通る道路端には、様々な歴史や人々の思いが、さりげなく残されております。そんな風景。