旧制高知高校、夢のような風景〔4415〕2015/05/18
2015年5月18日(月)晴れ
昨日は、濱口雄幸さん生家からのにっこりでした。昭和初期、若槻礼次郎と並んで民政党を引っ張った政党政治家。その頃から、軍人でも若手幕僚らが中心になって国家主義、国粋主義が跋扈を始め、政友会の犬養毅首相が殺された5.15事件で戦前の政党政治は終焉してしまいます。
しかし。大正から昭和の始めにかけて。まだ、地方の生活や庶民の生活には、古き良き、のんびりした空気が横溢する時代であったのかも知れない。
写真は、小津町。
県警本部を北へ、高坂橋を渡ると、歩道橋のある交差点があります。その歩道橋に上ってみました。これはまた、古い歩道橋。小生が子どもの頃からあります。近くに学校が多いのでつくられた歩道橋でしょう。
高齢化社会をみ変えた現代、歩道橋を撤去していこう、という流れもあるようで、この古い歩道橋も、いつかは取り除けられるのかも知れません。
さて。向こうに見える校舎は、附属小学校。高知大学教育学部附属小学校。高知大学の土地。
戦前、そこには旧制高知高校がありました。高知大学人文学部や理学部の前身、と言えば良いのでしょうか。旧制高知高校から帝国大学へ進学し、活躍した偉人は数知れず。小生の伯父も、秦小学校から土佐中学校、旧制高知高校、東京帝大に学んだ戦前派でございました。
ここに旧制高知高校が開学したのは大正12年4月。初代校長の江部淳夫が、かなりリベラルで立派な人物であったこともあり、昭和初期まで、実に自由闊達な学校であったと言います。
そんな高知高校に、大正14年から昭和3年まで、ドイツ語教師として赴任しちょったゴットロープ・ボーナーというドイツ人が居ります。
そのボーナーさん、高知での生活を紀行文や日記にして、残してくれちゅうのでありますね。
高知出身で、現在徳島大学教授、ドイツ文学、比較文学、比較文化学がご専門の、依岡隆児さんという方がいらっしゃいます。その依岡先生が、この度、「四国グローカル 日本とドイツの文化交流から」という本を上梓されました。その中に、「ドイツ人教師の見た四国(高知)」という一章があり、その、ボーナーさんの日記や紀行についてご紹介されちゅうのでありますね。玉稿。
FBでお知り合いになりましたSさんという方が、依岡先生と懇意で、そんな縁がつながって、この本を贈呈して下さった訳です。ありがとうございます。
この文章の中に紹介されちゅう、大正末期から昭和初期の高知。濱口雄幸が首相になる少し前の高知。上に書いたように、初代校長が江部先生であったこともあり、実にうらやましいような、夢のような、そんな風景が描かれておりました。暖かい気候風土を愛し、土佐人との触れ合いを、愛情を込めて描いた佳文は、気持ちを温かくしてくれます。
室戸へ乗合自動車で観光に出かけた場面では、当時の街並みや、のんびりした人々の生活の様子がよく判ります。そして、春や秋の、夢のような風景描写。
ボーナーさんは、妻子と一緒に、この写真の場所の向こうにあった、教員用の官舎に住みます。
「私たちの住まいのあるすぐ近くのお城の公園は、すでに数週間前からすばらしい梅の香りで満たされていた。屋根が優雅に反って瓦を互いにかみ合わせている、美しく保たれた天守閣が、花の海に浮かんでいた。雪のように白かったり、緑がかった白だったり、赤やバラ色で満たされていたり、満たされていなかったりだが、そうしたすべてのものの上には、いつも青い空が輝いていた。」
ああ。夢のような風景。
お正月に「オリエンタル・カフェ」で食事をした帰り。
「帰りに私たちは二人の身なりのよい、少々いい調子になっていた男たちが警官に出くわすのを目にした。その一人が法の番人たる警官に相撲を取ろうと言いだした。すると警官は受けて立ち、その太った男を三度高く持ち上げ、そうして彼を道からどかせて、しごくご満悦だった。」
こんな風景は、この後の世相の中で、見ることができんなってゆきました。ああ。夢のような風景。
リーブル出版さんから発刊された「四国グローカル」で、こんな一般ドイツ人から見た四国の風景を読むことができます。佳い本を、ありがとうございました!