松山、三津の渡し〔4385〕2015/04/18
2015年4月18日(土)晴れぞなもし
12年と1日目。今朝は、松山。愛媛県の松山。昨日の午後、金沢からサンダーバード、のぞみ、しおかぜを乗り継いでやって来ました。
夜は二番町界隈でグッスリ。宿泊は道後のビジネスホテル。
今朝、5時から起きだして走ってきました。道後三津浜港12kmラン。いや、素晴らしかった。
道後温泉の真ん中、道後温泉本館横のアーケードを、まっすぐまっすぐまっすぐまっすぐ西へ走ると、三津浜なんですね。道後と三津浜は、意外に近かった。
で、藩政期には軍港、商港として栄え、文字通り松山城下の玄関口であった三津浜港。明治になり、軍港としての役割は終えましたが、大型汽船が運航するようになってくると、遠浅で西風の影響を受けやすい港は大型港湾としていかがなものか、という意見も出て、少し北の高浜に大きな港が作られることになりました。
現在は、高浜の北の松山観光港、高浜港、三津浜港などがそれぞれの役割分担をしながら存続しております。
で、細長く東へ切れ込む三津浜港には、たくさんの漁船が係留されちょります。漁港として、今も栄える三津浜港は、高知で言えば御畳瀬を大きくしたような風情の、まったり落ち着く港になっちょります。
その細長い港の入り口の辺り。そこに、「三津の渡し」というのがありました。
文明年間の1460年代、つまり応仁の乱の頃のこと。伊予守河野氏の分家、河野通春が、港入り口の北側の山に港山城というお城を築きました。河野家の本家、河野教通は、道後の湯築城を本拠とし、分家の通春がここ、三津の港山を本拠として、対立しておった、とのこと。
で、港山城の城兵が、毎朝食料を港の対岸の須崎に購入に行く為、渡し船が運航されるようになった、ということ。500年を超える歴史を持つ渡し。
すごいのは、その渡しが、現在も運航されゆう、ということ。知りませんでした。
昭和45年から動力船となり、現在に至っちゅう三津の渡し。須崎の漁港の賑わいが、渡しを存続させてきたのでしょう。この渡しを利用すると、伊予鉄港山駅から須崎の漁港まで、しゅっと行けます。
正式名称は松山市道高浜2号線。なるほど。市道だ。対岸まで80m。で、朝7時から運航で、無料。市道ですきんね。時刻表などはなく、船頭さん(もう、ホント、船頭さんという感じ)が、どちらかの岸にお客さんが現れたらそこに船を着け、対岸へ渡す。操舵室に通報できるスイッチも、両岸に設置されちょります。おう。これぞ「渡し」。
ご覧のように屋根もない、シンプルな作り。雨が降ったら傘を差して乗るがでしょうね〜。
この後すぐ、小生だけを載せて出航、アッという間に対岸に到着すると、おねえさんが一人乗ってきて、アッという間に引き返していきました。
そして、また、おばちゃんを二人乗せて出航。
地域に見事に密着しちゅう「渡し」。嬉しいですね。
得した気分を満喫し、港山駅から伊予鉄に乗ってモンて来ました。ああ。松山の朝。