かにかくに、命短し恋せよ乙女〔4372〕2015/04/05
2015年4月5日(日)小雨どすえ
そんな訳で、今日は私用にて京都。桜満開の京都に来ちょります。とは言え、雨。お花見を楽しみにしちょった方も多いでしょうけんど、生憎の雨。まあ、雨の桜も良いもんではありますが。
しかし京都。どこもかしこも桜だらけ。ソメイヨシノにシダレザクラに、もう、色とりどり。観光客も多いはずですな、まっこと。今日の昼間も、どこの名所もどこの道路も混雑しまくり。雨やのに。これで晴れちょったら凄まじいことになっちょったでしょう。
こないだ京都へ来た時には、早朝、銀閣寺の下から哲学の道を走って蹴上まで行っちょりました。桜の樹がたくさんあったので、桜の季節には美しいろうねや、と思いよりましたが、その通り。朝7時前には京都に着いちょったので、まだ人も数なく、快適に見事な桜を堪能できました。
ここは祇園白川。四条からちょっと上がった、白川沿い。ここも桜は見事で、雨の中、たくさんの観光客さん。で、白川の畔に、このような歌碑がありました。かにかくに碑。そうか。そんな碑があったのか。
土佐とも縁が深く、香美市には吉井勇記念館もある、大正から昭和にかけて活躍した歌人、吉井勇βさん。昭和8年の「不良華族事件」という大スキャンダル事件の中心人物が奥さんであった、ということで離婚。その後、現香美市に庵を結んで隠棲したのであります。
その後高知を離れますが、吉井勇は、土佐とは深い関わりを持ちつづけた人物。
で、祇園をこよなく愛した吉井勇さん。
明治43年に詠んだのが、この歌。
かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる
説明板によりますれば、当時は、この白川の両岸にお茶屋さんがギッシリと立ち並んでおったそうです。川の上に突き出すように建てられて。
で、枕の下を白川の水が流れておったので、このように詠んだ訳ですな。
しかし、太平洋戦争末期に、疎界対策として白川北岸の建物は強制撤去。この碑の場所にあった茶屋「大友」も、撤去されてしもうたそうです。
時は流れて昭和30年。吉井勇の古稀の祝いとして、この歌碑「かにかくに碑」が、「大友」があった場所に建立されました。発起人がすごい。
大佛次郎、久保田万太郎、志賀直哉、谷崎潤一郎、堂本印象、湯川秀樹などなどなどなど。吉井勇のすごさが、この発起人の名前を見ただけでわかるではないですか。
吉井勇と言えば、松井須磨子さんが歌うたゴンドラの唄が余りにも有名。
命短かし 恋せよ乙女
赤きくちびる あせぬまに
熱き血潮の 冷えぬまに
明日の月日は ないものを
これが何故ゴンドラの唄なのか。
以前、塩野七生さんの本の中に解釈が書かれちょりました。ルネッサンス時代のフィレンツェ。メディチ家が支配した、活気ある時代。そんな時代の頂点に立つのがロレンツォ・ディ・メディチで、ロレンツォ・イル・マニーフィコとも呼ばれた、明るく有能な人物。その人物が創り、愛したイタリアの歌の歌詞が元になっている、というもの。
真相はよくわかりません。が、原詩はどうあれ、この日本語の美しさ。かにかくに、もそうですが、類まれなる言葉のセンスを持っておったことは間違いない、吉井勇さん。