三ツ頭、堀川、野中兼山、山内豊吉〔4353〕2015/03/17
2015年3月17日(火)晴れ!
良いお天気。気温も上がって20℃はゆっくり超えましたね。初夏の陽気の高知県地方でございます。車はエアコン。
昨日、堀川、そして三ツ頭の界隈をご紹介しました。ので、今日は、三ツ頭のところから東の方向を向いて撮影してみました。右手が中の島で、左手が農人町から常磐町。
堀川の川幅は、丁度、この三ツ頭の所から東へ行くに連れて広がってゆきます。地形を見ると、藩政期になるまで、ここまでが入江であったことが解ります。
何故、三ツ頭と呼んだかと申しますれば、ここが鏡川、浦戸湾、堀川の3つの水が交わる場所だから。嘗て、右手の中の島は、こっから先は湿地やったのでありましょう。堀川は、この場所から西に向かって掘られました。
昨日書きましたように、ここから西に向こうて堀川が掘られたのは藩政期初期の寛永年間。まだ、将軍は二代将軍家忠で、土佐は二代藩主山内忠義公の時代。
その、堀川掘削に関わったのが酒井吉佐(山内吉佐、山内壱岐)であった、という話。で、堀川は壱岐殿堀とも呼ばれた、てな話を書きました。
同じ時期、土佐藩では、野中兼山さんが活躍を始めます。藩内の各所で大土木工事を行い、港を拓いたり灌漑用水を引いて農地を開拓したり。舟入川や新川川など、開削された水路は物資運搬用の舟が行き来する水路ともなり、土佐の物流を担うことになったのはご承知の通り。
長岡郡、香美郡から舟入川で運ばれてきた物資や、春野、仁淀川方面より新川を通って運ばれてきた大量の物資は、浦戸湾に出て、ここ、堀川から城下へと運ばれました。もちろん、逆のコースもありますな。
昨日書いたように、壱岐殿堀に関わった山内壱岐の息子が山内豊吉。山内下総、とも呼ばれた人物で、彼と、深尾出羽、深尾因幡の3人が、三代藩主忠豊の近習、生駒木工、孕石頼母を介して、藩主忠豊に野中兼山を弾劾したのが寛文三年(1663年)のこと。
忠豊は、野中兼山に、上記の3人に相談しながら政治を行え、と申し渡すも、プライドと矜持の野中兼山さんは、そんなことは真っ平ごめん、と拒否し、奉行職を解任されてしまう訳だ。
この堀川を開削した人物の息子が、この堀へ物資を運んでくる水路を開発した人物を弾劾。
そして。
壱岐殿の息子、山内豊吉は、兼山さんの領地であった本山土居を預かり、3530石に増石されて家老本職に抜擢、という、うまい立ち回りをやる訳ですな。
野中家が、その後一族全員処分されたのはご承知の通り。
では、山内豊吉の子孫は。
「土佐藩 家老物語」という、高知新聞社から発刊されちゅう本によりますと、その、酒井山内家は、豊吉の時代が絶頂。幕末まで家柄は生き残りますが、財政的に非常に厳しい時代を幕末まで過ごしちょります。民事再生法のような申請を、藩政期を通じて、何度も藩主に申請して、困窮を極めた様子がわかります。
ここ、三ツ頭は、松ケ鼻、とも呼ばれました。往時、堀川沿いの松並木がここまであって、その先っぽであったからと言います。今なら差し詰め「桜ケ鼻」でしょうか。