蔵前国技館〔4325〕2015/02/17
2015年2月17日(火)雪が・・
今朝は東京。昨日の夜の飛行機でやって来ました。
で、いつものように早朝ラン、築地コース10kmをやって、ホテルに帰ってシャワーを浴び、出かけようとしたら。なんと、雪が降り始めました。水分の多い、霙のような雪。去年の東京の大雪を思い出しますな〜。
さて。昨夜泊まるっちょったのは東日本橋。なので、旧奥州街道をまっすぐ北上すると、しゅっと蔵前。くらまえ。
この、蔵前という地名は、我々世代にはかなり印象深い地名。そう。蔵前国技館。
今でこそ、大相撲は両国の国技館がメイン会場となっちょります。が、我々が子供から大人にかけて、大相撲を楽しみよった頃は「蔵前国技館」。
NHKのアナウンサーが、「それでは、蔵前国技館からお別れします。さようなら。」などと言いよった記憶があります。蔵前。
写真は、その蔵前国技館があった場所。今は、都下水道局のポンプ場が鎮座し、国技館の面影もありません。
元々、蔵前という地名が正式に採用されたのは昭和9年。この隅田川寄りに「浅草御蔵」があったことに由来します。
この界隈、藩政期初期の元和六年(1620年)に、浅草鳥越神社の丘を切り崩した土で埋め立てられたと言います。徳川得意の巨大インフラ整備事業の一環。各所にあった米倉を、ここに纏めてきた訳ですな。
ここにできた巨大な蔵には、全国の直轄地などから運ばれてくる年貢米などなどが保管されました。旗本、御家人に給された米は、ここのお米でありました。
で、その浅草御蔵の前には米問屋や札差などの関係施設が立ち並んで「御蔵前」と呼ばれておった訳です。で、昭和9年になって正式に蔵前。もう、お上の施設ではないなったので「御」の文字が無いなったのでありましょうか。
さて、蔵前国技館。
元々、大相撲は、両国の国技館で興行されよりました。しかし、その国技館は戦後にGHQに摂取され、困った相撲協会は、開催場所を模索。で、紆余曲折を経て、昭和24年からこの地に蔵前国技館を建設開始、翌年に、仮設のままオープンして、大相撲が行われるようになった、とのこと。仮設でなく正式に完成したのは昭和29年。
その後、大人気の大相撲のメインステージであり続けた蔵前国技館。
蔵前国技館で最後に行われた大相撲は昭和59年9月場所やそうです。そうか。もう、そんなになるのか。
その場所の優勝力士を調べてみますと、なんと、意外な力士。前頭12枚目という番付の多賀竜。すごいですね〜。前頭12枚目での優勝。その翌場所の優勝力士は横綱千代の富士。その翌場所も千代の富士で、その翌場所、昭和60年3月場所は、我らが大ちゃん、大関朝潮太郎くんではありませんか。なるほど、そんな時代。
この写真の、土蔵造りのような建物。これは、下水道局がつっくった「蔵前水の館」。何かと申しますれば、都内で唯一、下水道が実際に流れている様子を見学できる施設ながやそうです。なかなか微妙な施設。しかし、相撲のことも、ちょっと展示しちゃあると書いてますが、どうなんでしょう。
この場所に、今よりもずっと人気のあった大相撲が開催されよった蔵前国技館があったことを示す痕跡、案内板、標柱もなにもありません。忘れ去られてゆく昭和が、ここにもありました。