はじめての秋葉祭り、山に子供が溢れる風景〔4319〕2015/02/11
2015年2月11日(水)まあまあのお天気
今日は仁淀川町。合併する前は仁淀村。ここで、毎年2月11日に開催される秋葉祭りは、今や全国から観光客を集める、すごいお祭りになっちょります。今日も、この狭い山間の集落に、とてつもない人々がやって来ちょりました。いや、すごい。
こんなお祭り、昔は、日本国中、様々な場所で行われておりました。古式豊かな、非常に民俗色の濃い、土俗的なお祭り。しかしいつしかそんなお祭りも廃れ、無くなっていった日本。特に、子供が活躍するようなお祭りは、集落に子供な居なくなった頃から継続ができなくなり、なくなってゆきました。
仁淀村は、日本の中でも、また、高知の中でも、、中山間中の中山間。過疎の、高齢化が進んだ集落ばかり。そんな場所で、子供がかなりの重要な役割を果たすお祭りが連綿と、しかも活気に持ちた状態で継承されている奇跡。そんな奇跡を見に、高知や愛媛はもとより、日本中から人々が集まってくるのでありますね。秋葉祭り。
実は小生、生まれて初めて。
何故か、やって来る機会がありませんでした。毎年、新聞で記事を見ても、山に車が溢れて大変、みたいなことが書かれちゅうので、敬遠しちょったこともあります。
今年は、仁淀川町関係者と関係の深い方にお誘いを頂いたので、やって来ることができました。期待しちょりましたが、期待以上。面白い。。いや、ホント。
まずは、岩屋神社という、一番下の集落の神社からスタート。太刀踊りや、有名な鳥毛ひねり。小さい子供達が真剣で踊る太刀踊り。そして長い長い檜の棒の先に、東天紅の羽を丸くしつらえた鳥毛。これを、二人の若者が投げ合うのが、このお祭りの一番の見所。3地区のグループが、それぞれのやり方で順番にやってゆきます。
そして、そこから市川家の家まで練り歩き。
その市川家。
この界隈、土佐と伊予を結ぶ道の要衝でした。で、番所が置かれ、寛永九年(1632年)に番所役として着任したのが市川七衛門さん。市川家は、明治になるまで、ずうっと番所役を務めたそうです。
で、その市川家に祀られちょった秋葉大神を、ずうっと山の上の方、3km以上離れた現在の秋葉神社に遷座したのが寛政六年(1794年)。それが、秋葉祭りお練りの起源、と書いちゃありました。なるほど。元々のお宮さんから、遷宮先の神社までのお練り。それが今の秋葉祭りになってきた訳だ。
市川家から、大石家、中越家などを練って、最後は秋葉神社。縁あって、大石家や中越家で行われゆうおきゃくにも参加させて頂き、おいしいお酒とお料理をグッスリやりました。いや、楽しいこと極まりない。貴重な貴重な良い経験でした。
写真は、大石家の前。狭い急な坂道をお練り。こんな狭い場所でも、鳥毛ひねり、やるがですね。かなりの難易度のようで、成功したらギャラリーから大歓声がおこっておりました。
このお祭りのすごさ。
小さい子供が多い。太刀踊りなど、重要な役割を担う。また、お練り中演奏されるお囃子は、中学生くらいの少年。一番注目される鳥毛ひねりの担当者も、まだ若い男子。神様が女性なので、お練りなどは、全員男に限るのだそうです。
かつては仁淀村だけから子供を集めるのが困難になり、遠くの親類などかき集めておったようです。今は、地元出身で高知市などで暮らす夫婦の子とか、合併した仁淀川町全域の子とかが集まるようになり、賑やかになってきたとのこと。
山に、子供が溢れる風景。涙が出るくらい嬉しくなる風景。これこそ、日本の理想の風景かも知れません。
お祭りの時だけとは言え、子供達の声が山に響く。この子たちが、いつまでも、故郷の祭りの風景を胸に刻み込んでいれば、いつか、帰って来たくなるかも知れない。祭りは、そんな、とんでもなく重要な役割を果たしていると強く感じました。
感動的です。山に、子供が溢れる風景。