震災の日、錦兵団司令部跡から藪を漕ぐ〔4267〕2014/12/21
2014年12月21日(日)晴れ!
今日は12月21日。今から68年前。戦後間もない昭和21年12月21日午前4時19分。いわゆる昭和の南海地震が発生しました。
安政南海地震が1854年なので、それからまだ92年しか経過しちゃあせん1946年。我々の親の世代は、この昭和の南海地震の記憶が鮮烈で、浦戸に住んじょった小生の母親も、その時のことをよく喋ってくれます。
地震発生後、誰かが「津波が来るぞ!」と叫び、皆が浦戸の山へと逃げたそうです。その山から、浦戸湾をたくさんの船が流されていくのを見て、恐ろしかったといいます。
昭和の南海地震は、定期的に発生する南海トラフの地震の中でも、例外的に小さかった地震と言えましょう。あまりエネルギーが発散されていない。前回から100年経っちょらんので、それほどエネルギーが溜まっちょらんかった、とも言えます。
なので、次回の南海地震がどれっぱあのエネルギーが溜まっちょって、いつ発生するかが読みにくいのでありますね。
どちらにしましても、昭和の南海地震よりはずっと大きいものであることは間違いなさそう。昭和21年のときはこうやったき、という体験談は重要ですが、次回はそれよりかなり大きいことを想定しちょかんといけません。やはり、宝永南海地震級は想定しちょかんといかんと思われます。
昭和の南海地震は、戦争で焼け野が原になった高知の街が復興を始めたところを襲いました。もう、いいかげんにしてくれ、という感じやったと思います。それでも、我々の先人は挫けず、頑張り、復興への道を歩んでくれちゅうのであります。
そんな時代の記憶も、もう、遠くなってゆきつつあります。
昨日、車を南国の会社に置いて帰っっちょったので、今朝は走って会社まで行きました。せっかくの日曜日。普通に走って行くのももったいないので、途中、介良の山を藪漕ぎしてきました。
まずは朝峯神社さんへお参り。それから、小富士山と鉢伏山の間の谷筋を登ってゆきます。その斜面に、「嗚呼 錦兵團司令部之跡」と刻まれた石碑があり、戦争末期、山全体を要塞化して米軍の上陸作戦に対抗しようとした痕跡があります。
このにっこりでも何度もご紹介してきた、戦争遺跡。
師団というと、司令官は中将。軍隊の中でも非常に大きい単位。朝倉にあったのは連隊で、連隊長は大佐クラス。連隊が集まると旅団で、少将クラス。旅団が集まって師団。
かなりの規模の軍団が、この界隈に配置された訳です。
小富士山から鉢伏山にかけて、山中をたつくりますと、壕の跡などが至るとろころに見受けられることは、あまり知られちゃあしません。
錦兵団。陸軍第11師団のことを、錦兵団と呼んだそうです。
その司令部は、朝峯神社さんの南西方向の山を登っていった山中にありました。最後の師団長、大野中将が揮毫した「嗚呼 錦兵團司令部之跡」と刻まれた石碑。昭和20年9月15日、その碑を残して、師団は解散し、兵隊さんは故郷へと帰ってゆきました。
ここにそんな師団や司令部があったことを伝えるのは、その石碑だけ。この碑への道標が山の麓にありますが、それも折れたまんまになっちょりました。そして山中の道標も、こんな感じで折れ、荒れ果てております。もう、誰もここを訪れたりしないのでしょうか。
いや、しかし、石碑の周辺だけは草が刈られ、今も大切にしてくださりゆう方がいらっしゃるのがわかります。
嘗ては、この場所から蜂伏山まで山道がつながり、途中にいろんな軍事施設が構築されちょったことでしょう。今は、その道は荒れ果ててしまい、藪。途中からは山道の痕跡すらなくなります。今朝は、そこを藪漕ぎして潮見台の団地のところへと抜けました。
麓は住宅地で、山の上も団地なので、危険はないと思うでしょ?
しかし誰も決して通ることのない山中の藪漕ぎは、一人で行くと、ちょっと不安になったりもします。そんな時、人間が掘ったと思われる壕の跡などを見つけると、ちょっとホッとしたりします。良い藪漕ぎスポットです。