神谷神社、秋深し〔4243〕2014/11/27
2014年11月27日(木)晴れ
今朝は香川。坂出市にある、弊社香川支店に来ちょります。国道32号線を通って来ましたが。四国山地は紅葉真っ盛り。美しい渓谷美を眺めながらやって来ました。
四国山地。実に深い山々が襞をなす、四国山地。その山を眺めますと、ずっと奥の山の上まで家が見えます。祖谷もそうですが、谷の奥深くに入って行っても、どこまで行っても、集落があったりするのに驚かされます。何故、こんなに山深いところに人々は住んだのか。
大豊町の山も深いですが、徳島県側は更に深い気がします。
深い深い山奥に入り込んでも、山の上にポツンと家。今も人が暮らしている家。
民俗学者、歩く巨人、宮本常一さんが、日本の山々を歩き、集落を調査し、伝承を聞き取って考察した文章がたくさん残ります。
山を移動し、山に暮らした人々。
杣人。炭焼き。タタラ。サンカ。マタギ。
色んな技能や職業の人々が、昔から、日本の山で生活していた風景。そして、里で暮らす人々には思いもよらない場所で、思いもよらないネットワークを持ち、移動しながら暮らした人々。
その中でも、木地屋は、謎に満ちた、不思議な、山の人々でした。
里の人々が知らないような深い山を移動しながら、木を伐り、木で食器などを作っていた人々。ろくろで作ったりもしていました。
山奥の樹々がいつの間にか伐採されている。そこには小屋掛けした痕も。間違いなく人々がやって来て、しばらく暮らしていた痕跡がある。しかし、なかなかその人々を見ることは無い。謎に満ちた人々で、もしその仲間に出会うてしもうたら、生きては帰れない、などという言い伝えまで、まことしやかに流布していた、木地屋。
現実にはそんな恐ろし人々ではなく、山の七合目から上の樹々は自由に伐採しても良い、という天皇家のお墨付きがある、という伝承の元に各地の山深いところを移動しつつ、木で食器類を作りながらまわっていた人々。
時代が下って山に所有権が発生してきても、そんなこととは関係なく、里人からは遠く離れて独自の文化の中で移動しながら暮らした人々、木地屋。山には、里の暮らしと殆ど関係ないような暮らしがあった、そんな日本。
そして、山深い場所には、里の人々が気付かないうちに定住集落ができていたようなケースも、たくさんあったようです。木の食器が、谷川を流れてきたので、その谷を遡上してみたら、小さな集落ができていた、というような伝承が、今も残ります。
それは、里に暮らせなくなって山に逃げ込んだ人々。もちろん、戦に負けて落ち延びた落ち武者であったケースも。一番有名なのは平家の落人で、今日通って来た大歩危小歩危から谷間を山深く入り込んだ祖谷などにも、平家の落人の末裔と伝えられる集落はたくさんあります。
貴種流離譚と相俟って、平家の落人ではなくても、時代が下る中で平家の落人集落である、という風になっていったケースもあったにかありません。
弊社の総務部長の実家は、大豊町の岩原という山深い場所。吉野川からは見えない、奥に入り込んだ谷の集落。そこは、平安時代、承平天慶の乱での、藤原純友の末裔が落ちてきて住み着いた集落、とされます。
四国山地の山深い場所、何故、こんな山奥に集落が、と思える場所は、やはり、里に暮らせなくなった人々が住み着いた落人集落であったのでありましょう。
そこは、炭を焼いたり焼畑をしたり狩りをしたり、何らかの生活の糧を得る手段があったので、住めた山でもあったのでしょう。大豊や徳島の山の集落が、とてつもなく山深いのには、そういった歴史があるのかも知れません。
ここは坂出市の神谷神社。国宝、神谷神社。美しい山の谷間に鎮座まします、美しい神社、神谷神社。
この谷の奥には、神が住みます。
紅葉が美しい参道。
神谷神社、秋深し。