黎明の境内、土俵、相撲〔4214〕2014/10/29
2014年10月29日(水)晴れ!
良いお天気。秋が深まり、朝に晩に、空に山に海に、実に美しい風景が見える季節になりました。いや、夕焼けも朝焼けも、とにかく美しく、地球に生まれて良かった、とシミジミ実感できる季節。
写真は今朝の野市、上岡八幡宮さん境内。東の空が明るみ始め、絵画のような朝焼けが始まりました。素晴らしい。
まだ暗いので、ハッキリ写っちょりませんが、この手前には土俵。今は草に覆われ、「土俵の形状をした盛り上がり」にしか見えませんが、かつてはここで、宮相撲が繰り広げられておったであろうことは、想像できます。土佐は相撲の国。相撲熱は藩政期初期から燃え上がっており、野中兼山が、あまりのことに相撲禁止令を出したほど。
今も、高知のあちこちには相撲の強かった人物の伝説が残ります。それとバン持ち。
バン持ちとは、神社などで、巨岩を持ち上げることを競うたもの。今はなかなか見られませんが、かつては、それぞれの神社に大きな石が置いてあり、それをどれっぱあ持ち上げれるかを競うたりしよった訳です。
目安は自分の体重やったとも言いますが、猛者は、自分の体重の何倍もの石をお持ち上げたと言います。バン持ち。
さて。相撲。
手元の「高知県百科事典」には、土佐の相撲について詳しゅうに記載されちょります。
元々は神事。年占いをするもの。なので、土俵には注連を張り、四本柱の竹には幣を添え、清浄であることを示しました。
以前にも書きましたが、こんなにも相撲人気が高かった土佐なのに、江戸の大相撲には、明治17年に海山太郎が入幕するまでの124年間、一人も入幕しちょりません。たぶん、強い人物はたくさんおったでしょうが、土佐は中央を向いちょらんかったがかも知れませんね。島根県などは、たくさんの名力士を生み出しちょりますのに。
明治17年入幕の海山太郎の最高位は前頭筆頭。本名河野貞太郎で、月見山の下辺りに碑が立てられちょったと記憶します。土佐出身として初めての大相撲力士。メジャーに挑戦した野茂みたいなもんでしょうか。野茂が切り開いたメジャーへの道を、たくさんの日本人選手が通っていったように、海山太郎の後にはどんどんと大相撲の力士が土佐から生まれていきました。
知恵の矢寅太郎(前頭4)、八幡山定吉(大関)、海山太郎(関脇)、国見山悦吉(大関)、鏡川正光(前頭2)、土州山役太郎(前頭1)、加勝山鹿治(前頭14)、矢筈山登(小結)ときて、玉錦三右衛門さんが登場して横綱になるのでありますね。
以前、本山町の上関、阿弥陀堂の奉納相撲をご紹介したことがあります。今も残る、宮相撲。子供の部から始まって、大人の部が深夜まで繰り広げられます。最初は神事から始まり、神様に負ける儀式がありました。
もう、このように大人がカチンコの相撲を繰り広げるお祭りも少なくなりました。
草が生い茂る土俵の痕跡を見るにつけ、少し寂しい気持ちになります。相撲などの神事を、今風にちょっとアレンジして、復活させていくことはできんでしょうかね。地方は、そんな文化の中で活力を取り戻してゆくのかも知れません。