陸軍大将、海軍大将〔4212〕2014/10/27
2014年10月27日(月)曇りのち晴れ
それにしても昨日の御畳瀬のボタ焼き、うまかった〜。また、食べてみたい逸品でした。
結局、ゴボ天も沖うるめの丸揚げも食べ、ビールも飲んだので、長浜まで歩いて、バスに乗って帰ってきました。
ここは今朝、4時半過ぎの野市、上岡八幡宮さん。拝殿の灯りに照らされる拝殿前。真っ暗な森に浮かび上がる神社は、神聖にして厳粛な空気が満ちております。
その向こうの玉垣。大正の終わり頃にご寄進された玉垣は、空襲で少し破壊され、先年の石垣修復工事に合わせて補修されました。
その玉垣の中に、以前もご紹介した「陸軍少将 川田明治」さんの名前があります。「金百弐拾五円也 陸軍少将 川田明治」。
三島村に生まれ、高知県尋常中学校から陸軍士官学校、そして陸軍大学を出て、最後は陸軍中将まで上り詰めた人物。この玉垣を寄進された頃は、関東軍参謀長やったと思われます。
中将になりましたが、大将にはなっちょりません。
幕末、戊辰戦争、そして明治初期の御親兵の時代には薩摩長州と並んで軍人を輩出した土佐。
しかし。「長閥」と言われるほど人事を牛耳った長州、そして薩摩出身の陸軍大将は、「こんな人物が大将?」というのも含めてたくさんおります。しかし、土佐出身の陸軍大将、陸軍の成り立ちへの関わりに比して、こじゃんと少ない。
それは、板垣退助など優秀な軍人が野に下り、自由民権運動に走ったせいもあります。また、西南戦争の英雄、谷干城さんのように、徒党を組むことを良しとせず、中将であっさりと軍隊をやめて、政府のやり方に厳しい目を向け続けた人物もおります。
長州は、徒党を組みます。なので、山県や桂、寺内などの実力者が長州人をどんどんと持ち上げ、閥を形成していきました。薩摩も、同郷意識がこじゃんと強い。それに比して、土佐人。徒党を組むことを嫌う土佐人。
意外なことに、土佐人として、陸軍で最初に大将になったのは、大正8年の由比光衛さん。それまで、52人の陸軍大将が生まれちょりますが、53人目で初めて。
その次に陸軍大将になる土佐人は、太平洋戦争中、昭和18年の山下奉文で、山脇正隆、そして最後の陸軍大臣下村定となります。
海軍となりますと、やはり島村速雄。日清日露の戦争で活躍した、人間としても素晴らしいとされる海軍大将。そして、島村速雄が海軍大将になった翌年、大正5年に海軍大将になった、連合艦隊司令長官、吉松茂太郎。そして太平洋戦争開戦時の軍令部総長、永野修身。
土佐出身の大将は、永野修身を除いて、概ね評判の良い人物が多いのが嬉しいですね。それぞれ、気概を持ち、公平にして無私。
特にすごいと思うのは島村速雄大将でしょうか。とにかく謙譲の人。歴史研究によって、この人物が日本海海戦などに果たした役割の大きさ、功績はすごいものがある、ということがわかってきちょります。この人物がいなかったら、東郷平八郎の艦隊は津軽海峡に向かい、バルチック艦隊を壊滅させる、という結果にはならなかったと言われております。しかし。島村さん、自分の手柄をすべて部下、同僚のものに帰し、自分は何もできていない、と言い続けちょります。何か事件が発生したら、すべての責任は自分にある、と言い募り、勝利や成功については黒子に徹し、功績は他の人にある、と言い募る。
土佐人として、こんな人物になりたいものです。なかなかできませんが・・・