伊佐庭如矢さん〔4162〕2014/09/07
2014年9月7日(日)降ったりやんだり
実は、今日は松山に来ちょります。愛媛県の松山。松山市内にございます、アイテム愛媛というコンベンション施設にて、とある会合。
今はお昼休み。ロビーに置いてちゅうチラシ類をぼんやりと眺めておりましたら、このようなチラシを発見。愛媛県生涯学習センター企画展「伊佐庭如矢」。どうやら、道後温泉の恩人、ということのようで、ちくと調べてみました。
いさにわ、という名字なので、伊佐爾波(いさにわ)神社の神官さんかと思いましたら、違いました。伊佐爾波神社は、道後温泉本館の近く、石段を上がったところに鎮座ましますお宮さんで、古い古い歴史を持ちます。
伊佐庭如矢さんはいさにわゆきやさん。文政11年(1828年)に、松山の町医者の息子に生れ、本姓は成川さん。お祖父さんが、土佐からやって来た、とありますき、土佐とのゆかりも有るのでありますな。
で、松山藩に出仕、塾を開いて多くの門下生を育てたそうです。そして明治維新。長男に家督を譲り、自分は家を出て伊佐庭姓を名乗りました。伊佐爾波神社にあやかっちゅうのは間違いないでしょう。道後温泉の守り神ですき。そして愛媛県の吏員、つまり公務員となった訳です。
そこで一つ大きな功績。
松山城が廃城になる危機を、県の参事に嘆願して、守った、ということ。すごい。仙台の青葉城に、「心無き俗吏」によって廃された、という説明板が掲げられちゅうがとは対照的。人間、こういった矜持、将来を見通す目が、どれだけ大切か。権力にオモネルことだけは避けたいもんです、人間として。
で、明治23年、前年に町制が敷かれたばかりの「道後湯之町」の初代町長に。
ここからがすごい。
まず、周囲の大反対を押し切り、自分の給与は無給としつつ巨額を投じて道後温泉本館を建築。この時の『この道後温泉が100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる』という伊佐庭如矢さんの言葉は、重い。
今年、その本館ができてから120年ということで、様々なイベントが行われております。伊佐庭如矢さんの思いは、100年を過ぎ、120年経っても、道後の繁栄とともに生き続けております。
温泉本館だけでなく、温泉街の興隆にも尽力。そして、一番町から道後まで鉄道を引き、三津口からも鉄道をつないで、集客。これで、関西方面から船でやってくるお客さんも急増し、観光客がどんどんと増えたのでありました。
志。
こころざし。
そんな先人の志、努力、尽力が、今の我々にどれだけの恩恵をもたらしているのか。そんな人物にスポットをあてる愛媛の人々に敬意を表します。
自分の街の将来をここまで思い、先を見通し、粉骨砕身できるヒト。見習うべき偉人の姿が、ここにありました。