103年前の美しい土木技術〔4160〕2014/09/05
2014年9月5日(金)山には霧が
今朝は、香川に行っちょりました。早い時間に会社を出たので、国道32号線。早朝はすいちゅうので、楽チン楽チン。高速道路よりも風景に変化があるので、好きです、国道。
国道32号線は、根曳の坂を越えると、穴内川沿いを下って行きます。で、JR土讃線穴内駅のちょっと北で吉野川本流に合流。その、合流地点の吉野川に、薄緑色のトラス橋、新吉野川橋が架かっちょります。真冬の早朝は、凍結しちょって滑りやすいので気をつけんといかん新吉野川橋。
「新」というくらいですき、「旧」吉野川橋もあります。現在の新吉野川橋から、少し、吉野川の上流。狭い路を入っていくと、突き当たりが吉野川橋。
今はもう渡れません。しかし、橋脚やトラスの部分は、かつての姿そのままに残る吉野川橋。ここにこの橋が架けられたのは明治44年。今年で103年になるという、古いもの。以前にも書きましたが、「原位置に現存する道路トラス橋としては国内最古」のものやそうです。霧の中に浮かび上がるこの姿、なかなかのもの。
トラス橋は、桁部分にトラス構造を使った橋。トラス構造とは、細長い部材を三角形に繋ぎ、それを繰り返して桁を構成する構造。
この吉野川橋が面白いのは、3種類のトラス構造が使われちゅうところ。
一番手前は、橋の両脇にかまぼこ型になったトラス。その向こうには、比較的よく見かける、四角いトンネルのような構造のトラス。この写真では見えませんが、その向こうに、両脇だけの、少し角ばったトラス。いかなる理由で、3種類のトラスを使ったのか。謎です。
明治44年という時代。
日本が西洋の土木技術を取り入れ、消化し、独自の技術の開発を進めておった時代。
この吉野川沿いのルートで、香川徳島と高知が国道で繋がったのが明治27年。最初は、狭い、クネクネした道であったでしょう。吉野川をどこで渡っていたのかは不明。しかし明治44年、この橋が架かることで、飛躍的に便利になったことは想像できます。
この橋脚をご覧ください。曲線が実に美しい、そして力強いレンガ造りの橋脚。建設以来100年以上経過した今も、吉野川の中から屹立し、このトラス橋を支えちょります。これぞ産業遺産。この橋が、阿波と土佐をつなぐメインルートであった時代、この上を人馬、自動車も通り過ぎていった風景。
吉野川の真ん中に、この、高い高いレンガ造りの橋脚をつくるのは、明治44年の土木技術では、かなり大変やったかも知れません。
で、色んな技術が進歩しておった時代、3種類のトラスを組み合わせているのは、色んな技術を試しておったのかも知れません。日露戦争が終わり、日本人に世界の一等国の仲間入り、という夢が芽生え、国産の技術を進歩させる機運が乗り上がっておった時期。
この美しいフォルムを見ておりますと、そんな時代の想いが伝わってくるような気がします。
先月の大雨では、川は、このすぐ真下のところまで増水しちょったにかありません。このすぐ南の、穴内川では、対岸のうどん屋さんの駐車場が崩落しちょります。増水した川は、国道と同じ高さにあるうどん屋さんのすぐ下まできちょりました。こないだの8月8日、つまり、1度目の大雨の後、2度目の台風の前に、そのうどん屋さんに食べに行きました。駐車場は崩壊しちゅうのに、営業しゆうががすごい。で、うどん屋さんのおんちゃんが、タブレットで撮影した、増水時の写真を見せてくれたがですが、ホント、建物のしゅっと下を激流が流れております。
おんちゃん、逃げんかったそうです。そりゃあチャレンジャーが過ぎますぞね。「逃げざったがですか?」と尋ねると、横からおばちゃんが「このヒトが逃げん言うき、逃げざったけんど怖かった。今度きたら絶対に逃げるきね」とおっしゃっておられました。そりゃあそうだ。
この土木遺産は、103年間、そんな烈しい大自然の営みの中で生き抜き、今も美しい姿を見せてくれます。
国道を車で走る際、新吉野川橋から、吉野川の上流方向を見てみてください。先人の知恵と努力を感じる、美しい橋が、そこに屹立しちょります。