地形と泉岳寺と赤穂浪士〔4144〕2014/08/20
2014年8月20日(水)東京は夏晴れ!
今朝は東京。昨日の朝やって来ましたが、いやいや、夏の青空が広がる東京。外を歩くと夏の暑さ。懐かしいようなお天気。高知では、今月に入ってからこんな夏晴れのお天気の日はありません。ずうっと雲厚く、青空があっても雲の合間。そして思い出したように強い雨。雷。
東京の、青い夏空を、こじゃんと羨ましゅうに感じてしまいました。お日様の下で「暑い暑い」と言いゆう東京の皆さん、ハッキリ言うて、羨ましいです。
そんな夏空の下、久々の築地RUN。今朝はちょっと短めの7km。品川界隈から第一京浜、つまり旧東海道を通って銀座、そして築地。築地では、迷わず「きつねや」さん。久々なので、吸い寄せられてしまいました。おいしかったです。早朝ホルモン丼。
おばちゃんに尋ねたら、市場が豊洲に移転しても、場外のもんぜき通りは今のまんま残るそうです。良かった良かった。
ここは、その旧東海道の「高輪大木戸跡」。この南が品川宿で、南側から江戸に出入りする人々は、この大木戸を通らんといけませんでした。江戸から東海道を下る旅人は、ここから江戸の街を出て、最初の宿場、品川へ。東海道から江戸へやって来た旅人は、品川宿で最後の夜を過ごし、この大木戸を通って江戸の街へ。
その大木戸の石垣が、今も、第一京浜国道沿いに残されちょります。
この向こうの信号を右へいくと、泉岳寺。そう。赤穂浪士や浅野内匠頭のお墓がある泉岳寺。
最近よく売れた、「日本史の謎は地形で解ける」という、竹村公太郎さんという土木専門家の方が書かれた本。地形愛好家の小生には、結構ツボの、興味深い本。土木専門家の視点から、歴史の事件や政策の理由をさぐっていく本で、なるほど〜、と唸るような仮説がたくさん。まあ、それはちょっとないろう〜、というのもありますが。
で、その仮説の中に、泉岳寺テーマパーク説というのがありました。
色々複雑なので、徳川家と吉良家の関係については書きませんが、とにかく、徳川家は、吉良家が眼の上の瘤状態で、鬱陶しかった。そこへ発生した殿中松の廊下事件。
で、仮説では、徳川家は、この事件を利用したということです。義士討ち入りについて、幕府は見て見ぬ振りを決め込み、実行しやすいようにする。そうでないと、赤穂浪士の潜伏場所が余りにも大胆過ぎ、また、吉良邸から泉岳寺まで、役人に止められずに来られるはずがない。などなど。
で、泉岳寺が、東海道の、江戸市街地への出入り口近くにあることに眼をつけ、ここに四十七士を丁寧に祀った。東海道を行き来する人々は、ここで泉岳寺にお参りし、討ち入り事件のことを聞いて、全国に、美談として伝えていく。
これによって、幕府に取って都合の良い「忠義」という思想を庶民に広げ、併せて吉良氏の評判を貶めて没落させていく。徳川にとって一石二鳥であったのではないか。
ここに書くには、少し内容が複雑なのですが、視点としては興味深いですね。
この大木戸、元々はもっと江戸寄りにあったものを、泉岳寺近くのこの場所に移設して、お参りしやすいようにしたのではないか、という仮説も述べております。
ともかく。
泉岳寺が、品川宿に近い江戸市街地への出入り口の門の近くにあったことが、赤穂浪士の話が全国に広がっていくきっかけになったのは間違いないかも知れません。
今朝、走る途中の5時半頃に泉岳寺さんに寄ってみましたが、まだ門が閉じられ、入門できませんでした。外から手を合わせ、300年前に思いを馳せてきました。
小生、三波春夫大先生の長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」、ソラで歌えます。
時は元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓 しかも一打ち二打ち三流れ 思わずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え おう!まさしく赤穂浪士の討ち入りぢゃ・・・・
走りながら、そんな台詞を口ずさんでおりました。