街道考2〔4125〕2014/08/01
2014年8月1日(金)薄曇り
蒸し暑い夜でした。今日は曇っちょります。それでもワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャ。
昨日、街道についてあれこれ考察してみました。渓谷や岩場の海岸など、危険な場所には街道は通らず、もっと山中で高低差があろうとも、安全性や距離が優先されちゅうのではないか、という話。で、今日は別の視点から考察してみました。それは集落。
街道が通ったので、それに沿うように集落ができる場合もあるでしょうが、集落があるので、そこを通るように街道がつくられる、という側面も、もちろんあるのでありますね。で、以前からこのにっこりでも書いてきましたが、山間部の集落は、結構、山の高い部分にある場合が多い。なので、集落と集落を結ぶ道は、かなり高いところを通っちょります。渓谷みたいになっちゅう場合、その流れに近い場所には集落を形成するスペースもないし危ない。岩場の海岸もそうですね。集落を通るように街道を作ろうとすれば、自ずと、高低差には眼をつぶって山の方を通すことになったのではないでしょうか。
明治になり、交通手段も変化し、土木技術も進歩して、初めて、集落は通らないが高低差がない、渓谷や海岸の道が整備されていったのでありましょうか。
街道で思い出すのはローマ。共和制から帝国の時期を通じ、古代ローマは、その広大な支配エリアに街道を張り巡らしちょったのはご承知の通り。すべての道はローマに通ず、というように、ローマを起点として放射状に、欧州や北アフリカの各所へ街道が延びておりました。主要街道は石によって舗装され、馬車が高速で安全に通り抜けられるようになっちょったがもご承知の通り。ある程度の地形は無視して直線に敷設され、一定の距離間隔で馬や必需品の補給ができるようになっちょったのは、現代の高速道路のよう。サービスエリア完備であったローマ街道。
軍隊が遠征する際、馬車が移動するのにも非常に便利にできちょりました。
日本の街道は、基本的に、人が歩くようにできちょります。中国の官道は、直線に、馬車も通れるようにつくられたと言われますが、日本では、そうはなりませんでした。それは、どうやら日本の地形によるものにかありません。脊梁山脈が走り、そこから無数の川が海に向こうて流れ込み、数少ない平野は、その川によって形成されたデルタ、湿地帯。そんな訳で、馬車が通れるような直線で長い、馬車が通れる頑丈な街道を整備することはできず、基本的に「徒歩」。徒歩だと、高低差よりも距離が優先されますね。そんな事情で、日本の街道は山をクネクネ整備されていったのでありましょう。
写真は、昨日書きました、下街道。南国バイパスの、田村の歩道橋のところから南へ、空港滑走路下のトンネルを抜け出た所。西向いて撮影してみました。向こうに鉢伏山が見えます。この下街道は、稲生を通って城下町へとつながります。
このしゅっと右手に城八幡が鎮座まします。千屋城趾。戦国期、土佐には長宗我部氏など戦国七雄と称された守護がおりましたが、それに次ぐ勢力として「四大封」と呼ばれた豪族が磐居しちょりました。国沢氏、森氏、蚊居田氏、そして千屋氏。その千屋氏の本拠があったのがこの界隈。この北側に竹村神社という祠があります。千屋氏の家老、竹村隼人さんを祀った神社。以前にも書きましたが、その子孫の方をよく存じ上げております。長宗我部からの恭順を促す使者が千屋城を訪れた際、有無を言わさず斬って捨てた、という剛の者。
下街道沿いには、そんな歴史が流れております。