五台山の明石掃部〔4113〕2014/07/20
2014年7月20日(日)良いお天気
昨日の午後、ちょっと降り始めた感じのあった高知市内でしたが、しゅっとやんで、ほとんど降りませんでした。昨夜は、汽車に乗って赤岡へ。香南市赤岡町。絵金まつりにお呼ばれしちょったので、友人達と行ってきました。初めて行ってきましたが、なかなか面白いおまつりですね~。
絵金の絵屏風を街のあちこちに並べ、それぞれのおどろおどろしい絵をボランティアの皆さんが詳しゅうに説明してくれよります。日が暮れてからの雰囲気は独特で、普通の神社の夏祭りにはない、独特の文化と雰囲気を感じさせてくれるものでございました。いやいや、豊能梅さんの振る舞い酒もおいしゅございました。
帰りは9時の汽車に乗るつもりで「中日そば」で有名な「とさを」さんに入りましたが、大人気。結局、9時のには乗り遅れ、9時52分の最終の満員汽車に乗って帰ってきました。中日ちりめん、おいしゅうございました。
さて。
そんな訳で、今日もお昼前、五台山へ走りに行ってきました。風は爽やかで心地良いのでありますが、直射日光の暑いこと。なかなかコタイます。で、年間パスを利用して牧野植物園へ。
正門から入ったところの本館に、五台山のジオラマがあるがをご存知ですよね。そのジオラマには、小生も知らんような神社や史跡がいっぱい。中でも気になっちゅうのが、このオブジェ。
長江から上がったみかん畑に、幕末、純信とお馬が逢い引きを重ねたと言われる「お馬岩」があるがはご承知の通り。何度もご紹介してきました。
そのしゅっと近く。「キリシタン大名明石掃部の墓」とあります。これは気になる。
明石掃部と言えば、戦国末期から江戸時代にかけて活躍した有名なキリシタン大名。本名は明石全登。あかしたけのりと読むにかありません。
元々は戦国大名宇喜多秀家の客将。軍師となって、西軍宇喜多秀家の軍勢を率いて奮闘、そして敗北。
その後、今、大河ドラマで活躍中の黒田官兵衛、つまり黒田如水、つまり黒田孝高の庇護を受けた、とあります。キリシタン大名繋がりですな。
しかし黒田長政はキリシタンを禁止したので、出奔。
そして大坂の陣。松平忠直軍に突撃し、その後の消息は不明。
猛将、勇将で、キリシタン。歴史の重要な場面に必ず登場する重要人物。
その明石掃部さんのお墓が、五台山の、純信お馬の逢い引き岩の近くに?
と、いう訳で、今日は牧野からお馬路を駆け下り、鷺のコロニーで白い爆弾攻撃に遭いながら、その界隈に行ってみました。しかし、発見できず。
帰ってからネットで調べてみますれば、明石掃部さん夫婦の墓、ということで、その辺にあるにかありません。実際は、その兄夫婦のお墓ではないか、という説も。で、ホントの墓は、香北町(現香美市)白石にある、という話。
何故、土佐の香北に明石家の墓が?
そこに住まわれゆう、明石掃部の子孫!の方のお話では、明石家と、山内家重臣の小松家が近い関係にあり、そのご縁で、土佐へ落ち延びてきた、という伝説。
なるほど。
大坂の陣で消息不明となったキリシタン大名。宣教師を匿うほどの熱心な信者。なので、南蛮へ逃亡した、という伝説も残る明石掃部さん。
今度、もうちょっと調べちょいて、確認して来ます。