田村、守護代屋敷、巨大津波〔4108〕2014/07/15
2014年7月15日(火)曇り
昨夜の蒸し暑さは尋常ではなく、結局、扇風機をつけっぱなしで朝まで寝てしまいました。今日も蒸し暑い一日になりそうな、そんな朝。湿度がかなり高うございます。
ここは南国市田村。室町時代、土佐の守護であった細川氏の守護代屋敷があった場所。その中心部に今も残る城八幡の丘の上から、南の方角を撮影してみました。
現在の物部川は、会社の東側を流れます。ここに本流が完全に固定されたのは、藩政期初期のこと。野中兼山さんの仕業。それにより、香長平野の灌漑や治水が安定し、今に至る訳です。
それまでの物部川は、色んな場所を流れてきました。長岡台地の裾を西進して、介良方面へと流れよった時代もあります。
ここに細川氏の居館があった室町時代は、どうやら、このしゅっと東が本流。今も、Google Mapの衛星写真を見ると、何となくその河道を確認することができます。今の王子川が流れゆう界隈ですね。その物部川本流の西岸には、3つのお城があったそうです。
お城と申しますが、中世の砦。ここにあったのが、その中心の細川氏の居館。守護代ですき、ここで、土佐を支配する政治を行いよった訳です。
ここから南へ、現在の空港滑走路を横切ったところに千屋城。こっから北へ、福船というところにあったのが岩村城。いずれも、在地の国人が領主となって本拠としちょった居館。
その、物部川の西岸に形成されちょったのが自然堤防で、その上に弥生時代、巨大な集落が営まれておったのはご承知の通り。発掘された竪穴式住居の数では日本一ともいわれる巨大集落。弥生前期に始まり、弥生後期後半まで続いた大きな集落。よほど、条件が良かったのでありましょう。
その田村集落の南西には潟湖。ラグーン。たぶん現在の前浜、切戸界隈にあったと思われる物部河口部から西北へ広がっておったと思われるラグーン。
田村に住んだ弥生人たちは、稲作をしながら、ラグーンや太平洋で魚を捕ったでしょうか。自然堤防の上にあるので、意外に洪水にも強かったかも知れません。
しかし、物部川の洪水には何度も襲われたでしょう。その洪水にも耐え、弥生後期後半の2世紀頃まで栄えたのであります。一番栄えたのは紀元前1世紀頃。日本有数の大集落であったかも知れません。それが、2世紀、突然、家の数が激減する、という事態が発生し、集落の中心部はもっと北西に移動して、長岡台地上などに展開されるようになりました。また、物部川を渡ってずっと東の香宗川沿いにも集落が移ったのでありますね。この理由は、まだ、はっきりくっきり解明されちょりません。
小生、今迄、灌漑技術の進歩で、水はけが良くて固いという農耕に適してない長岡台地などの洪積台地でも、農業が営めるようになったき、という説を展開して参りました。農業ができるなら、水害の少ない方が良い。
しかし、それにしてもあまりにも劇的な集落移動。
そう言えば、高知大学の岡村特認教授が、宇佐の蟹ヶ池のコア調査で、史上最大規模と言われる宝永南海地震の2倍以上の高さの津波があったことを発見されました。今回の東日本大震災以上の地震と津波が土佐の沿岸を襲うた、という話。それは、約2000年前のこと、という研究結果だそうです。そうか。2000年前と言うと、1世紀。これには誤差はないのでしょうか。
弥生田村遺跡の住居が激減した時期はホントに2世紀なのか。土佐を襲うた巨大津波は、丁度2000年前なのか。
ここで考えました。この大地震と巨大津波が原因で、田村の弥生集落が壊滅したのではないか。
それまで、何百年間も、物部川の洪水にも耐えて残ってきた弥生集落が、あっという間に姿を消す、というのは、2000年に一度クラスの巨大津波が襲うたきではないか、という妄想。
何とか生き残った人々は、再び田村で暮らすことを諦め、長岡台地などへの高台移転を決意した、という妄想。
その後、前浜もラグーンも自然堤防も静かな風景に戻り、いつしか、ヒトも住むようになり、外界との交流の拠点となって栄え、都市が形成されていったのかも知れません。
物部河口から入ったラグーンの入口の波静かな港は、交流拠点の都市として栄えました。大湊。そのラグーンの対岸、北側に、政治の拠点、守護代屋敷ができて、全体を統治。
この風景は、一昨日の鷲尾山からの風景を連想させます。長宗我部元親さんは、浦戸湾の入口、浦戸の港を外界との窓口とし、浦戸湾の奥地の大高坂に政治の拠点を置いた。
これは、日本中で繰り返されてきた、港と政治拠点の位置関係の原理。