相撲〔4105〕2014/07/12
2014年7月12日(土)晴れ
夏空。暑い。
ただ、昨日は台風一過で、まだ地面の湿気も多かった為に蒸し暑かったのですが、今日はカラリと晴れ上がって心地良いこと。ここは野市、上岡八幡宮さんの境内ですが、完全に真夏の風景になっちょりました。しかし、まだクマゼミの合唱は聞かれません。この風景にクマゼミの合唱が加わると、高知も真夏、ということになります。
昨日、高知の草競馬のことについて書きました。で、昔の娯楽と言えば巡回映画と草競馬、てなことを書きましたが、重要なのを一つ忘れちょりました。そう。相撲。
土佐では、昭和の頃まで、相撲は庶民にとってとてつもなく重要なものでした。特に、宮相撲。各所には地域地域の産土神が鎮座し、その神社には、必ず土俵があって、奉納相撲が行われよりました。もちろん神事なのでありますが、それはそれ。しばしば、大喧嘩に発展するような騒ぎも繰り広げられたと言います。
写真の手前の盛り上がった部分。ここに土俵がありました。今は、芝生に覆われ、相撲をやるような雰囲気ではありませんが、間違いなく土俵。
かつて、この土俵を観衆が取り巻き、大きな声援を送りながら観戦したであろう、そんな土俵。今は、すっかり相撲人気も衰え、神社の奉納相撲も減ってしまいました。残っちゅう奉納相撲でも、子供の相撲が中心になっちゅうケースがほとんど。
そんな中、以前にもご紹介した本山町上関、阿弥陀堂の奉納相撲は、大人のアマチュア力士がガチンコで勝負を繰り広げる昔ながらの奉納相撲で、貴重な無形文化財。あんあ風景が、この土俵でも、あちこちの神社の土俵でも、どこでも見ることができた時代。
土佐での相撲熱はすさまじく、藩政期初期には、もう、大変なものであったと言います。山内一豊が関ヶ原の後に土佐へ入国してくるに際し、長宗我部の残党を、相撲大会と偽って集めておいて一網打尽に殺戮したのは有名な話。相撲は、娯楽のチャンピオンでした。
で、野中兼山先生は、あまりの相撲人気の過熱が種々の弊害をもたらしておる、ということで正保二年(1645年)に相撲禁止令を出したほど。どれだけ守られたのかは不明ですが。
もちろん相撲人気は全国的なもので、興行としての相撲が確立していったのは江戸時代中期。江戸相撲、大坂相撲など。江戸相撲でつくられた番付で一番古いものは宝暦7年(1757年)のものでありますが。そういった大相撲で、土佐の力士が入幕した記録は残りません。最初に入幕したのは明治17年の海山太郎。
こないだ行っちょった松江歴史館には興味深い展示がありました。江戸時代、大相撲史上最強と言われた雷電為右衛門。江戸相撲の初土俵が1790年11月場所。松江藩お抱え力士で、殿様が松平氏なので、その力でいきなり西関脇付け出しからという異例のデビュー。本場所在位36場所(大関在位27場所)で、通算負け星が10個。勝率.962。史上最強と言われる所以。
土佐からは、江戸相撲などで活躍する力士はでませんでした。
では弱かったのかと言うと、そんな訳はありません。相撲どころで、その選手層の厚さは半端ではない。しかし、いくら強くても、江戸まで行ってデビューする機会にも恵まれんかったがやないでしょうか。
出雲は、相撲の祖と言われる野見宿禰(ご存知菅原道真公の祖先)の出身地で、出雲相撲の本場。全国的にも有名。そこに加え、譜代の松平家がお殿様で、中央とのパイプが太い。そんな訳で、雷電のような力士を輩出することになったと思われます。
神社境内の土俵。
本山、上関阿弥陀堂の奉納相撲のように、また、各所で相撲が行われるようにならんでしょうか。地域対抗戦とかをやって。地域のコミュニティを取り戻す、ひとつの良い方法やと思いゆうのは私だけかも知れません。