時化の上岡八幡宮、石段の滝、亥の大変〔4103〕2014/07/10
2014年7月10日(木)台風8号
大時化でした。午前5時過ぎ。南国市、野市町界隈は、朝5時から6時くらいの間、かなりガイに降りました。風も強烈で、ビニール傘がひとつバラバラになってしまいました。
丁度、その、一番雨が激しい時間帯に、いつもの野市、上岡八幡宮さんへお参りに行っちょったのであります。もう、パンツまでビショビショ。会社に帰ってきたら雨が小降りになったのが、ちょっとだけ悔しかったです。
写真は、その上岡八幡宮さん。拝殿前から雨水が滝のように石段を流れ落ちる様を、それこそびしょ濡れになりもって撮影。貴重な、努力の結晶の写真。
台風はこれからこちら向いてやってきます。風が強い状態が今日一日続くでしょうか。雨も、また、ガイに降るものと思われます。十分な対策で備えたいと思います。
この滝の様な石段。直方体の、手で切り出した石を組んだもので、文化十四年奉寄進と刻まれちゅう石があるので、文化14年(1817年)にご寄進されちゅうことがわかります。そうか。「亥の大変」の二年後か。
文化12年(1815年)の豪雨による大水害のことを「亥の大変」と呼んで、長い間語り継がれてきました。藩政期にこの界隈を襲うた最大級の自然災害。「寅の大変」が嘉永7年(安政元年)の安政南海地震で、それと並び伝えられる大災害、「亥の大変」。
文化12年7月6日。
その日降った大雨で、物部川の山田堰より下流の堤防は、ほとんどが決壊。氾濫した物部川の濁流は、西は五台山にまで達したと言います気、香長平野の、長岡台地の下側は、ほぼすべて水没したと思われます。
十市の琴平山に突き当たった濁流は、そこで反射して東へ逆流、前浜の、太古の昔物部河口であった場所で砂丘になっちょった場所から太平洋に流れ出た、ということ。200mほど砂丘が決壊したそうで、今も、「切戸」という地名が残ります。
明治になってからの物部川の大水害で有名なのは、明治19年9月10日の台風によるもの。この時も、両岸の堤防がかなりの長さで決壊、野市の深渕の田畑は完全に流されたと言います。また、立田、田村、下島、久枝、そして前浜と濁流が押し寄せ、多くの人命や家屋が失われたという大水害。その際、災害復旧工事の負担を廻って「物部川堤防事件」が起こった、という話は以前にも書きました。自由民権運動の一ページ。復旧工事の負担金を、物部川の水利に関係しない地域の住民からも集めようとしたことから、該当村民が怒り、民権運動家を先頭にして役所に数千人が押し掛けた、という「物部川堤防事件」。
その深渕に鎮座まします深渕神社さんは、元々、原部島というところに鎮座ましましちょりました。しかし、寛文年間(1661年〜1666年)に三度の大洪水に見舞われ、その全てが流されてしまい、野市の十善寺に遷された、と言います。で、上記の「亥の大変」など数々の水害に見舞われ、明治19年の水害にも見舞われながら耐えてきましたが、明治25年7月の大洪水で流失。更に明治32年にも再び洪水に遭い、現在地に遷された、と記録されちょります。深渕神社は、物部川の水害の歴史とともに歩んできた、とも言えましょう。
今朝の物部川は、増水はしちょりますが、まだ氾濫しそうな気配はありませんでした。一旦暴れ出したら治まりがつかない恐怖の川になる物部川。今は堤防が立派になり、決壊することも無いみたいに見えますが、大自然の威力をなめたらいけません。物部川は、恵みの川であるとともに恐ろしい川であることを忘れないよう、過去の災害史を知っておくことも大切なことであります。