吉良神社、七人ミサキ〔4073〕2014/06/10
2014年6月10日(火)薄曇り
こないだ、春野、六條八幡宮さんのあじさいのことを書きました。今、丁度見頃を迎えちょります。しかし降らんですね〜、梅雨というのに。昨日の高知も暑うございました。やっぱし紫陽花には雨が似合うんでありますが。
その六條八幡宮さんの南東。山裾の森に、吉良神社さんが鎮座ましましちょります。
こちらは、六條八幡宮さんとは趣きが異なっちょります。参道両脇に樹々が生い茂り、かなり幽玄な雰囲気。参道の石段両脇には春野らしく紫陽花が花を咲かせちょりますが、拝殿、本殿のある辺りは薄暗く、独特の厳粛な雰囲気を醸し出しちょります。吉良神社。
怨霊を鎮めるために建立された神社なので、その独特の雰囲気は当たり前なのかも知れません。
戦国末期、土佐国では最も知られる怨霊潭のひとつ、七人ミサキの伝説。
こないだ、比江山七人ミサキのことを書きました。それよりも、土佐では知られた「七人ミサキ」が、吉良氏の七人ミサキであることはご承知の通り。
今一度おさらい。
天正14年の年末。豊後戸次川の戦いで愛する嫡男、信親を喪うた長宗我部元親。土佐へ帰ってきて、気力を失うた元親は、自分の後継者に、四男の盛親を指名しました。次男親和や三男親忠が生きているのに、それでは武家の倫理に反する、などと重臣が諫言するも、近臣の久武内蔵助などの讒言もあって、諫言した家臣達を粛正してしもうた事件。
元親の従兄弟である比江山親興一族も、そして、甥である吉良親実とその家臣達も。吉良親実は、元親の弟で、春野の名門、土佐の戦国七雄のひとつと唱われた吉良氏の家督を継いで吉良城主となった吉良親貞の息子。なかなか優秀であったにかあらん。
しかし、信親を喪い、持ち前の判断力が混乱していた元親は、讒言を信じて親実に切腹を命じたのでありました。
そして、七人の家臣が殉死。
その後、その怨霊が元親や城下の人々を悩ませるようになった、という伝説。ここ、親実公の墓所である木塚山にも、ケチ火が現れるようになりました。そして常に七人の死霊。一人を取り殺すと一人が成仏するも、取り殺された者が七人ミサキの一人となり、いつまでも七人で増えも減りもしない。
全国に「七人ミサキ」の伝説は残るようですが、吉良親実さんとその家臣の伝説が一番有名。
怨霊を怖れた元親は、この地の墓に木塚明神を祀り、鎮めようとしました。それが、この、吉良神社。そんな訳で、少し、俗世から超越した、ヒトが無闇に入り込んでくるのを拒むような、そんな雰囲気が満ちあふれます。
吉良神社の御祭神は吉良左京進秦親実公。
拝殿脇の奥に境内社である七社明神。御祭神は次の七人。
勝賀野次郎兵衛実信、城ノ内太守坊、小島甚四郎、宗安寺眞西堂、永吉飛騨守宗廣、吉良彦太夫、日和田与三右衛門。七人みさき。
ここまで読んで、お気づきのことと存じますが、七人ミサキには、吉良親実本人は含まれちょりません。吉良親実公は、単独で怨霊となり、家臣団が七人ミサキとなった訳です。
ここは、親実公の墓所でもある訳で、400年以上経った今も、地元の皆さんに大切に祀られ、七人ミサキの伝説とともに受け継がれていっているのであります。