洪積台地と用水〔4059〕2014/05/27
2014年5月27日(火曜)晴れ
昨日は、まっことよう降りました。時折ガイに降りました。天気予報を見ちゃあせざったので、もう梅雨入りかと思うてしまいましたが、夜になって雨は上がり、今日はお日様。もうまあ梅雨入りは間違いないでしょうが、昨日ではありませんでした。
ここは野市、父養寺。ぶようじ。毎年この季節になるとご紹介しますね。ここには野中兼山さんが開削した上井川が流れます。こじゃんと豊かな水量。物部川から引かれたこの用水は、野市の田畑を潤す命の水。一年中、途切れることなく、水を満々とたたえる上井川。
野中兼山さんが物部川東岸に通した水路はたくさんあります。この上井川は、ここから下っていくと野市の台地面の高さになり、三叉で分岐して野市の中心部へと流れていきます。しかし、この写真の地点では、住宅はこの右手の上、山裾にあります。こっから5m以上高いところ。台地の上。
写真右端、竹薮の向こうに黒い壁が見えます。あれは、あそこに建つ家の石垣。あの石垣の上よりもうちょっと高い場所が、この界隈の住宅街。その山裾には、これも野中兼山さんゆかりの用水が流れております。
つまり、この上井川は、こっから三叉まで下る間に、この右上の地面とタイタイ近くなる、ということで、土木技術の高さが実感できますな。
野市。洪積台地で、地盤が固く、海抜も少し高い。なので、地震や津波に強い。山田の洪積台地、長岡台地と同じ。野市の台地は、長岡台地に比べると少し低いので、形成されたのは長岡台地より少し後になるのでしょうか。そうであるとすると、地盤も、山田よりは少し柔らかいのか。いや、これは単なる想像です。
物部川によって形成された扇状地。台地の成り立ちから考えると、氷河期などの、海が後退した次期に平らな面が川によって浸食され、川を中心とした低い場所と、浸食崖の上の高い部分に分かれ、高い部分が台地となっていく訳で、長岡台地や野市も、そうやって形成された扇状地性台地ながでしょうか。関東の武蔵野台地も、多摩川の扇状地に形成された扇状地性台地、洪積台地ですが、それと同じ感じがします。ただ、関東の場合は火山灰が堆積してローム層を形成し、それが地層をつくっていっちょりますが、ここはそうではない。火山灰はメッソ降りませんき。できる農作物の違いは、気候だけでなく、そんなところからもくるのでありましょう。
芋けんぴの生産量日本一の高知県で、年間、すさまじい量の甘藷を使用するのに、ほとんどが九州などの県外産である、という事実は、土壌の成り立ちの違いを証明しちゅうにかありません。
しかし野市。藩政期の農地開発で、豊かな農地となりました。米作中心で二期作も。
元々、この洪積台地は水の便が悪く、耕作不適地。なので、弥生時代の昔から、農地や集落は物部川や香宗川に近い沖積平野に形成されていったのでありますね。しかし、それは、水害に遭いやすいという欠点でもありました。
灌漑技術が進み、大土木プランナーの野中兼山さんによって縦横に水路が掘られたことにより、元々安全な野市は、野に市が立つ、と言われたくらい豊穣な土地となりました。
野市で、野中兼山さんが長宗我部の遺臣を「郷士」として取り立てて灌漑工事に従事させ、水田を開発させた話は有名。「野市百人衆」と呼ばれ、野市農業発展の礎となった人々。
この美しい緑の風景。野中兼山時代以前には、このような水路はありませんでした。なので、これほどの豊かな緑もなかったでしょう。
この場所から北へ、上井川の土手には、今、夥しい紫陽花が植えられちょります。これからの季節、県下でも有数の紫陽花の名所として、たくさんの人々が楽しみにやって来る父養寺あじさい街道。豊かな水あっての紫陽花街道。この風景は、先人の知恵と努力の上に成り立っちゅうのでありますね。